古典が古典になるために

源氏物語にしても枕草子にしても、初出当時から古典だったわけではなく、誰かの「好き」が積み重なることで、忘れ去られる運命に抗ってきた。そういう意味で、あらゆる作品は誰かからの「好き」を待っている。 だからこそ、古典の調べものをするたび、好きなものは好きと言ったほうがいい、面白かったものは面白かったと何度も紹介したほうがいい。 ………… というお話。死屍累々、山のような忘れられた作品の山を越えて、古典は生き延びている。ああ、わたしの作品は忘れられずにだれかに読まれることがあるだろうか。
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たられば @tarareba722

古典って、源氏物語にしても枕草子にしても、初出当時から古典だったわけではもちろんなくて、その作品のファンなりオタクなり、誰かが「これ好き」、「すごくいいから読んで」と言い続けてきたからこそ残ってきたんですね。ただただ誰かの「好き」が積み重なることで、忘れ去られる運命に抗ってきた。

2018-05-05 22:07:46
たられば @tarareba722

たとえば小野小町の「花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに」も、おそらくこの和歌は西暦850年頃に詠まれたのでは…と言われていますけれども、それがどんな場所で詠まれたか、詠んだ小野小町はどんな人物だったか、すべて忘れ去られてしまった。けれど作品だけは残った。

2018-05-05 22:08:47
たられば @tarareba722

それは、詠まれた約100年後に紀貫之が「これ好き」と言って古今和歌集に選んだり、さらにその約250年後に藤原定家が「みんな見て!」と百人一首に選んだり、数えきれない一人一人の「ファン」が語り継いできたからこそ今でも残り、その作品をもとにしてさまざまな派生作品が生まれたわけですね。

2018-05-05 22:10:10
たられば @tarareba722

皆さんご承知のとおり、小野小町の和歌は『ちはやふる-結び-』にも『君の名は。』にも登場しており、それぞれ作中で重要な役割を担っています。そうして受け継がれて繋がる「バトン」は、新たな作品を生み出しながら、現代のわたしたちの手にあって、それがさらに誰かの「好き」で繋がるのです。

2018-05-05 22:11:22
たられば @tarareba722

そういう意味で、あらゆる作品は誰かからの「好き」を待っている。 だからこそ、古典の調べものをするたび、好きなものは好きと言ったほうがいい、面白かったものは面白かったと何度も紹介したほうがいいと強く思うのです。それはきっと、横に広げるだけでなく、縦に繋げる役割もあると思うので。(了

2018-05-05 22:12:10