幕末の幕臣・小栗上野介忠順の生涯をまとめてみた

幕末期の幕臣・小栗上野介忠順の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

翌1867年(慶応3年)には株式会社・兵庫商社の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立。 これは資本の少なさから日本の商人が海外貿易で不利益を被っている事を受け、解決には大資本の商社が必要でした。

2018-07-12 00:00:29
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また、100万両という設立資金は当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものでした。 1867年9月6日(慶応2年8月9日)日本初の本格的ホテル・築地ホテル館の建設が始まります。これは小栗の発案・主導のもとに

2018-07-12 00:00:29
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清水組(現:清水建設)の二代清水喜助らが建設したもので、翌1868年9月25日(慶応4年8月10日)に完成しました。 このように小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかったようです。 pic.twitter.com/DOF3w6Cm5u

2018-07-12 00:00:29
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1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍・徳川慶喜は朝廷に大政奉還。翌1868年(慶応4年)1月に「鳥羽・伏見の戦い」が行われ、戊辰戦争が始まります。 慶喜の江戸帰還後、2月5日から江戸城で開かれた評定において小栗は榎本武揚・大鳥圭介・水野忠徳らと徹底抗戦を主張します。 pic.twitter.com/8kEcBz4XTo

2018-07-13 18:52:12
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この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて、 艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案します。 pic.twitter.com/EvZIerRnZD

2018-07-13 18:52:13
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後にこの作戦を聞いた大村益次郎は「もし、その策が実行されていたら今頃我々の首は無かったであろう」と恐れ慄いたそうです。 実際、この時点において旧幕府側は小栗が近代化した陸海軍を中心に強大な軍事力を保有していましたが、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採ります。 pic.twitter.com/geFGrJGDGA

2018-07-13 18:52:14
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1868年(慶応4年)2月8日、小栗は江戸城にて勝手掛老中・松平康英より呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中・酒井忠惇と若年寄・稲葉重正から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されます。 小栗は同月21日に「上野国群馬郡権田村(現:群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出。 pic.twitter.com/f7CsK0k25h

2018-07-13 18:52:15
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旧知の三井組の大番頭・三野村利左衛門からは、千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り 「暫く上野国に引き上げるが婦女子が困窮する事があれば、その時は宜しく頼む」と伝えます。また、2月末に渋沢成一郎からは彰義隊隊長に推されますが

2018-07-13 18:52:17
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「慶喜公に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶しました。 3月初頭、小栗は一家で権田村の東善寺に移り住みます。当時の村人の記録によると水路を整備したり、塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子はありませんでした。 pic.twitter.com/b8AQ0tcRk1

2018-07-13 18:52:17
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1868年5月25日(慶応4年閏4月4日)小栗は東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵より東善寺に居るところを捕縛され、 5月27日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現:群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に pic.twitter.com/IAqaRlpkPt

2018-07-21 22:35:39
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家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首されました。享年42歳。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、 東山道軍の軍監に小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭しました。 pic.twitter.com/5tat6s6G9V

2018-07-21 22:35:40
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そして原が「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い 「私自身には何も無いが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだそうです。 処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったと伝わっています。 pic.twitter.com/4qrZymNjbU

2018-07-21 22:35:42
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小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(父・忠高の義弟で日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として 旗本・駒井朝温の次男・忠道を養子に迎えていましたが、忠道も高崎で斬首されます。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子らは家臣及び村民からなる従者と共に

2018-07-27 02:19:44
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かねてより面識があった会津藩の横山常守を頼り、会津に向かって脱出させていました。道子は身重の体で善光寺参りに身を扮し、 急峻な山道で悪路越えの逃避行だったそうです。その後、一行は新潟を経て6月19日(閏4月29日)には会津に到着。 pic.twitter.com/CAFIDNNowW

2018-07-27 02:19:45
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松平容保の計らいで夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、7月29日に道子は女児を出産、国子と命名されました。 一行は翌1869年(明治2年)春まで会津に留まり、東京へと戻ります。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の奉公人であり pic.twitter.com/779rEpdD7f

2018-07-27 02:19:46
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小栗に恩義を感じていた三井財閥の中興の祖・三野村利左衛門でした。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、1877年(明治10年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けたそうです。 その間の小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟の忠祥が継ぎました。

2018-07-27 02:19:47
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三野村の没後も三野村家は小栗母子の面倒を見ていましたが、1885年(明治18年)に道子が没すると、 国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めで矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興しました。 pic.twitter.com/wXsmhzG9nz

2018-07-27 02:19:47
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群馬県高崎市倉渕に在る東善寺。ここに小栗上野介忠順・忠道父子のお墓が在ります。境内の小栗上野介父子と家臣らの墓は 明治初年に権田の村人が建立したもので正面に小栗父子の墓、左右に家臣と家族、村人の墓が5つずつ並んでいます。 pic.twitter.com/Fo1zVermh8

2018-07-27 02:19:47
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実はこのお墓は案内板にもあるように供養墓で、本墓はこの上にあるようです。私も参拝しようとしたのですが、行く手を猿の群れに阻まれ恐怖を感じたのでこの時は退散・・・💦(うぅむ 無念・・・)

2018-07-27 02:19:49
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そして豊島区雑司が谷霊園。この一角にも小栗上野介忠順のお墓が在ります。このお墓は遺児の国子さんとお婿さんの貞雄さんが後年、建立したお墓のようです。 pic.twitter.com/LmiB4Vj2yZ

2018-07-27 02:19:49
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小栗の死から44年後の1912年(明治45年)7月 日本海海戦で勝利した東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き 「日本海海戦に勝利出来たのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である事が大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈ってたそうです。 pic.twitter.com/Zg0ZLP7NWx

2018-07-27 02:19:50
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神奈川県横須賀市に在るヴェルニー公園。ここの一角に小栗上野介の胸像が在ります。傍には斬首された倉渕の地に在った石も在りました。 あまりに聡明過ぎた為か、裁かれる機会すら与えられずに斬首された小栗上野介忠順。 pic.twitter.com/wzr5hFUUvu

2018-07-27 02:19:52
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明治維新後の横須賀の街は、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市として発展を遂げました。太平洋戦争後は鎮守府は廃止されますが、現在でも観光客が絶えない賑やかな街となっています。 彼の死については謎も多く、今後も彼の生涯について深く学び続けようと思います。

2018-07-27 02:19:53
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小栗上野介忠順の生涯をまとめていて、感銘を受けた言葉が有ります。それは小栗が費用をかけて横須賀製鉄所を建設していた時に佐渡奉行の鈴木兵庫頭重嶺に述べたとされている言葉です。 鈴木が費用をかけて製鉄所を作ったとしても、幕府はどうなっているかわからないと苦言を呈した時

2018-07-27 02:51:20
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

小栗はこう言ったそうです。 「幕府の運命に限りがあるとも、日本国の運命には限りがない」 幕府には限りがあっても日本に終わりはない、という意味です。 幕臣であるにもかかわらず、日本国の将来を見据えていた小栗は本当に聡明な人物だったと思います。

2018-07-27 02:51:21