時計屋シリーズ1~時計屋の話~

時計屋の話です。音叉時計と水晶時計の話は逆です。
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帽子男 @alkali_acid

夕花が横でくすっと笑った。はかなげな、優しげな笑みだった。

2018-09-01 21:46:11
帽子男 @alkali_acid

三好の家は天国だった。健作ははじめてまともに動く時計を手に入れた。というか直した。といっても部品の一つが外れていたのを戻しただけだったが。 もう夢中だった。毎日のように学校が終わるとすっとんでいった。 「肇君」 「うん何?」 「この…芝刈り機もいいか」 「あぶないよ」 「いいか」

2018-09-01 21:49:25
帽子男 @alkali_acid

「夕花姉が怒るよ」 「あの人怒るの」 「たまに」 「怖い?」 「かなり」 「わかった。でもいいよな」 「…健作君…」

2018-09-01 21:50:59
帽子男 @alkali_acid

夕花が怒るのは見覚えがなかった。いつもおいしいおやつを作ってくれた。 「肇君のお姉さん、学校にはいってないの」 「うん。通信でやってる」 「そう」 また機械に取り組む健作を、初めは頬杖をついて見守る。 「あのね。夕花姉は、お姉さんじゃない」 「ふうん」 「いいなづけ」 「ふうん」

2018-09-01 21:52:24
帽子男 @alkali_acid

「いいなづけってなんだ」 「将来、結婚するんだ」 「そうか…ん?」 「びっくりした?」 「おい、動いたぞ」 ラジオががりがりと音をさせ始める。

2018-09-01 21:53:11
帽子男 @alkali_acid

幸せそうな健作に、肇はくすっとなった。夕花によく似た優しい笑みだった。 「健作君てさ」 「ん?」 「おかしいよね」 「べつに」 「ね。遊びにいこうよ。川まで」 「おね…いいなづけはいいの」 「うん」 「あっそう」

2018-09-01 21:55:01
帽子男 @alkali_acid

肇と夕花とあってからの日々はたいへんに楽しかった。父親の無関心は相変わらずだったが、家政婦はちょっと心配した。 「ぼっちゃん。三好のお屋敷に行かれるの」 「はい」 「あそこはねえ…ほら、家の人が鐘がよく聞こえるでしょう」 「はあ?」 「ぼっちゃんはよその子だから大丈夫だろうけど」

2018-09-01 21:56:47
帽子男 @alkali_acid

「ほどほどにね」 「はい」 よく分からなかったので無視した。相変わらず街ではふと手を止めて何かに耳を澄ませる人がいる。肇と夕花もそうなることがあった。 「肇ちゃん。それなんだ」 「健ちゃんは聞こえないんだっけ」 「なにが」 「うらやましい」 夕花がどこかまぶしげに健作を見つめた。

2018-09-01 21:58:41
帽子男 @alkali_acid

「鐘がね。聞こえる」 「鐘って」 「お寺の鐘。ごーんて」 「ああ。聞こえないけど」 「僕と夕花姉には聞こえる」 「そうか。周波数帯のせいか」 「またよく分かんないこと言ってる」

2018-09-01 22:00:13
帽子男 @alkali_acid

学校でも、聞こえる子と聞こえない子がいた。 聞こえる子は不安がって泣き出したり、聞こえない子が逆に癇癪を起すこともあった。健作には限りなくどうでもよかった。先日は本物の腕時計を動くようにしたのだ。すばらしかった。 とまあそのように空気の読めない性格は当然いじめの対象になった。

2018-09-01 22:02:22
帽子男 @alkali_acid

朝来ると下駄箱に蛙の屍が詰めてあった。まずそれだけ大量の蛙を捕まえた努力に一瞬健作は感心したが、すぐに腹が立ったので、先生に言いつけた。 先生は鐘の音が聞こえる方で、しかも霧に巻かれて自転車をだめにしたせいばかりあって機嫌が悪かった。 「嫌がらせ?何か証拠があるのか」 「蛙です」

2018-09-01 22:04:15
帽子男 @alkali_acid

「お前が自分で詰めたんじゃないのか」 「違います。クラスの男子17番です。あと23番と5番」 「友達を番号で呼ぶもんじゃない」 「はい」 「…?」 「やめさせてください」 「証拠は?」 「…」 「いいか。この国の法律はな。証拠がなければ罪には問えないんだぞ」

2018-09-01 22:06:03
帽子男 @alkali_acid

17番と23番と5番がにやにや笑っていた。 「おーいつんぼ」 「“時計屋”!蛙うまかったか」 「あいつの上履き蛙のクソくっせー」 健作は唇を噛んだ。

2018-09-01 22:07:16
帽子男 @alkali_acid

数日後、17番の机に、蛇が入っていた。理科室の標本。中身はぜんまいでうごく玩具に変わっていて、17番が朝椅子をひいたとたんに飛び出してきた。 死ぬほどびっくりした17番を、健作はちらりと見て、軽蔑したように鼻を鳴らした。

2018-09-01 22:09:01
帽子男 @alkali_acid

「次藤。理科室の標本をいたずらしたな」 「いえ」 「それで吉岡をいじめただろう」 「してないです」 「クラスの何人もお前がやったって」 「証拠はあるんですか」 「はあ?何屁理屈こねてる」

2018-09-01 22:10:38
帽子男 @alkali_acid

健作の意趣返しは、棒を持った17番、23番、5番の襲撃という結果をもたらした。 ぶん殴られて鼻血を出した健作を袋叩きにしようとしたところで、白馬の王子様というかお姫様が割って入った。

2018-09-01 22:12:00
帽子男 @alkali_acid

肇はまるで魔法みたいに5番を放り投げた。合気道とかなんとかそういうやつだろう。 「健ちゃんだいじょうぶ?」 「べつにっ」 言いながら石を掴んで倒れた5番を殴りにいく。 「ストップ!」 肇が止める。

2018-09-01 22:14:04
帽子男 @alkali_acid

「こいつも…鼻血…出させてやる」 「死んじゃうよ」 「証拠…なければいいだろ」 「あるよ」 「どけよ」 「健ちゃん!」 叱る肇は怖かった。多分夕花も怒るとあんな感じなんだろう。

2018-09-01 22:15:00
帽子男 @alkali_acid

肇は23番の腕をひねって棒を取り落とさせる。もっとも敵はとっくに戦意喪失していた。 「三好…なんで」 「健ちゃんは僕の友達だから」 「…だったら…早く言えよ」 怯えたようすで相手は退散していった。

2018-09-01 22:17:20
帽子男 @alkali_acid

肇はちょっと悲しそうだ。 「健ちゃん。ごめん」 「何が」 「僕の友達って言ったから、クラスで嫌がられるかも」 「あっそ」 「保健室いこ」 「肇ちゃん家」 「え」 「夕花さんに手当してもらう」 「う、うん」 「今日のおやつ何」 「カステラかなあ」 「カステラ」

2018-09-01 22:20:04
帽子男 @alkali_acid

二人で歩きながら、健作は肇に話しかけた。 「肇ちゃんのあれすげえな」 「夕花姉に教わっただけ」 「そっか」 「健ちゃんの方がすごいよ。聞いたよ、蛇動かしたって」 「知らない」 「えっ」 「証拠はない」 「えー…」

2018-09-01 22:21:52
帽子男 @alkali_acid

◆◆◆◆ 肇と夕花のいいなづけの関係についてはよく分からなかったが、一度見たらまずいものを見た記憶はあった。 健作は、どうしても三好の家にあった腕時計が欲しくて、勝手に持って帰ってしまたったことがある。

2018-09-01 22:23:48
帽子男 @alkali_acid

肇のなくなった父親のものだという美しい外国製の時計で、とうてい健作にはいじれないような精緻な機構でできていた。見ただけで惚れ込んでしまって、ついいじっているうちに、持ち出してしまったのだ。

2018-09-01 22:24:57
帽子男 @alkali_acid

そのまま自分のものにしてしまおうという誘惑が心をかすめて、急に胸がどきどきした。要するに盗みだ。もちろんばれる。肇は追及するだろうか。しない。だったら手に入れられる。 でもそうしたら、肇とのつきあいはどうなるだろうか。 健作が一度も悩んだ覚えのない問題だった。

2018-09-01 22:26:25
帽子男 @alkali_acid

人間なんて機械いじりに比べればどうだってよかった。はずだった。 急に泣きそうになって、暗くなった道を引き返した。ごめん、ごめんと呟きながら、腕時計を握りしめて、三好の屋敷に垣根の破れからこっそり入る。母屋は戸締りをしているだろうが、蔵の前にそっと置いておけば、いいと考えた。

2018-09-01 22:28:09
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