時計屋シリーズ1~時計屋の話~

時計屋の話です。音叉時計と水晶時計の話は逆です。
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帽子男 @alkali_acid

しんとした闇の中で目にしたのは、夕花と抱き合う肇だった。背丈はまだずっと離れていて、並ぶと姉と妹みたいな二人が、ぴったりくっついて、唇を重ねていた。

2018-09-01 22:29:30
帽子男 @alkali_acid

幸せで、快くて、温かな雰囲気なのに、どこかひどく切なげでもあった。

2018-09-01 22:30:14
帽子男 @alkali_acid

不意に、広い屋敷に、通いで来る下働きのお年寄りを除けば二人っきりで住んでいる少年と少女というものが、なんだか分からないがひどく遠くて恐ろしい世界の人々に思えた。

2018-09-01 22:31:35
帽子男 @alkali_acid

肇と夕花が抱擁を解いた。 健作が立てた物音に気づいただろうか。 だが二人が見たのは、どこか遠くだった。 手を握り合って、少年が年嵩の少女をかばおうとするように、どこか分からない何かを遮るように立っていた。

2018-09-01 22:33:20
帽子男 @alkali_acid

健作はそっとその場をあとにした。 時計については後日勝手に持って行ったことを謝った。 肇は少しも怒らずに、気づかなかったと笑った。 その面持ちはとても大人びていた。

2018-09-01 22:34:18
帽子男 @alkali_acid

三好の家とのつきあいは中学、高校と続いた。 健作は肇ほど成績がよくなかったが、勉強を見てもらってどうにか同じ学校に入れた。

2018-09-01 22:35:37
帽子男 @alkali_acid

二人とも背は伸びたが、相変わらず肇は美少女顔で、少しも男っぽさが出てこなかった。夕花と並ぶとやはり姉妹のようった。 健作はといえば、無茶はだんだん加速していった。

2018-09-01 22:37:11
帽子男 @alkali_acid

「健ちゃん絶対まずいよ」 「気が散る」 「ねえ」 「肇ちゃん。秒読み入るから」 「もう…」

2018-09-01 22:38:03
帽子男 @alkali_acid

健作の秒読みが終わると同時に、川面が炸裂する。しぶきが雨のようにかかり、続いて魚が浮き上がって来る。生石灰を使ったドッカン漁法というやつで、当然禁止されている。しかも健作手製の時限装置つきだった。

2018-09-01 22:39:28
帽子男 @alkali_acid

「完全に成功だな」 「ええ…」 「魚を回収しよう。もったいない。ほら千切れてない。全部計算通りだ」 「…回収ってこれ全部?」 「無駄な殺生をしたつもりはない」 「無理だよこんなにぃ…」

2018-09-01 22:40:42
帽子男 @alkali_acid

さすがに夕花にもひとりでは調理しきれなかったので、男子高生二人は川魚の甘露煮の作り方を学ぶ機会になった。 「健作さんは、相変わらずですね」 「どうも」 「進路はどうされるんですか」 「親父が東京に転勤なんで。多分むこうです」 「そう…肇さんもそうしたら?」

2018-09-01 22:42:50
帽子男 @alkali_acid

夕花が水を向けると、肇はじっといいなづけと視線を合わせた。 「僕は夕花姉とここにいる」 「そう?健作さんと一緒なら、東京きっと楽しいと思うけど」 「ここにいるよ」 健作は二人を見比べてぽつりと言った。 「二人とも東京に行ったらいい」 三好家はどちらもぎょっとしたらしかった。

2018-09-01 22:45:40
帽子男 @alkali_acid

「急に何で」 「家ぐらい俺がなんとかする」 健作は正確に動いている腕時計に視線を落として、また顔を上げた。 「夕花さんも肇ちゃんもよそへ移ったらいいんじゃないか」

2018-09-01 22:47:33
帽子男 @alkali_acid

「どうして…そんなこと言うの」 「鐘の音とかいうの、聞いててあんまり楽しそうに思えない」 夕花はにっこりした。作り笑いというのではないが、痛みを隠すような笑みだった。 「…ありがとう。健作さん。でもここを離れても、音は聞こえると思う」 「東京はうるさいから気にならないよ」

2018-09-01 22:49:02
帽子男 @alkali_acid

時計屋は、とても美しい女性がわなないて、片目だけから涙を流すのを初めて見た。幼馴染がそばへよって、客の目も憚らずに抱きしめる。 「ごめん。健ちゃん」 「…ああ。邪魔したな」 席を立つ。

2018-09-01 22:50:53
帽子男 @alkali_acid

夕花が後ろから呼びかける。 「健作さん…ありがとう…ほんとに…ありがと」 「また来ます」 すたすたと出てゆきながら、健作はひどく苦しかった。

2018-09-01 22:52:10
帽子男 @alkali_acid

結局、大学は別々になった。おまけに父親は、東京どころか海外の通信線敷設の仕事ができて海の向こう東南アジアへ渡ってしまった。バナナが採れることしか知らない国だ。

2018-09-01 22:54:54
帽子男 @alkali_acid

理工系のあまりぱっとしない大学だったが、それでも反戦だ平和だ、左翼だ右翼だ、うんぬんかんぬんなどがかまびすしい時代で、健作もちょっとつまらないごたごたに巻き込まれた。具体的には初めて付き合った女子学生が左翼で、向こうは色んな男子学生と寝ていて、付き合っているという訳ではないが。

2018-09-01 22:56:55
帽子男 @alkali_acid

その人がよそでもめたあげく自殺してしまい、まあごちゃごちゃしていた。楽しいこともあった。特に学生のあいだで出回っている地下出版本はそれなりに面白かったが、乗っている時限装置の設計図の不備をさりげなく指摘する文書を流したら相当な騒ぎになった。

2018-09-01 22:59:47
帽子男 @alkali_acid

ちなみに話が前後するが、肇と夕花の結婚の話を聞いたのは、大学に入ってすぐで、予想はしていた。向こうは祝言にぜひ来てくれと当然書いてよこし、汽車代までつけてきた。夜行列車を乗り継いで間に合わせた。

2018-09-01 23:02:18
帽子男 @alkali_acid

夕花はもうお腹が大きくなり始めていた。あれこれ三好の親戚筋が集まっていたが皆当然という態度だった。健作はよく分からないのでほかの参加者はすべて無視した。 「おめでとう」 「ありがとう。健ちゃん」 「健作さん。来てくれてほんとにうれしい」

2018-09-01 23:05:11
帽子男 @alkali_acid

ばたばたしすぎて東京来いよとは言えなかったが、何となくやはり新郎新婦をこの場からひっさらって、あの煤煙けむるそうぞうしく薄汚い都会に連れて行きたい感情があった。単に二人とずっと一緒にいたかっただけかもしれない。

2018-09-01 23:06:18
帽子男 @alkali_acid

ちょうどその時、場に集まった全員が同じ方向を見た。健作を除いて。 異様な光景だった。皆が目を見開き、ぽかんと口を開けて、何かに聞き入っている。

2018-09-01 23:07:21
帽子男 @alkali_acid

鐘の音。 健作は不愉快だった。なんだか面白くなかった。だから肇と夕花の手をぎゅっと握った。 「また、夕花さんのおはぎ食わせてくれよ」 「あ…あれでよければ、いつでも」 「健ちゃんほんと好きだよね」 笑いあった。何も聞こえなさを、分けてやるつもりで。

2018-09-01 23:09:24
帽子男 @alkali_acid

それから一年後に肇は命を絶った。

2018-09-01 23:10:06
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