知性と形相──ハイデガーの真理論から

近藤さんと高橋さんのやりとり。
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Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 form といえば、たとえば「青白い」とか、そういうことを示しているのだ。

2011-04-29 23:29:44
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 これだけでも少しは明らかだと思うのですが、中世において「形相」といったら、それは単なる shape のことではなくて、それが物の「本質」を規定する「原理」である、というのが第一義的なところですね。人間の「実体形相」は、「人間性」という「本質」であるように。

2011-04-29 23:32:08
@Kn_D0

@adamtakahashi なるほど。かなり勉強になるtwありがとう。近世哲学が前提する質料+形相の図式は、アヴェロエスからトマスに至るアリストテレス解釈に由来する、ということでいいですか?

2011-04-29 23:32:09
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 近世哲学が前提する質料+形相の図式は・・・>一応、それでまずおはOKだと思う。お気づきのように?このトマスの実体的形相の話って、さっきの認識論の話とセットですよね。あくまで物→感性→知性という三段階があって、それで知性が物の不変的な本質を知る、という構造なのだから。

2011-04-29 23:34:28
@Kn_D0

@adamtakahashi ふむ。つまり、物における形相(つまり物の「本質」)が、それを認識する実体的形相とのあいだに「一致」が生じることが、知ることである、と?

2011-04-29 23:37:49
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 トマスは主知主義者、つまり私が認識する前に事物の本質が(不変に)規定されているという立場だと考えると分かりやすいし、それに対するアウグスティヌス主義者=フランシスコ会士(スコトゥス&オッカム)は、知性よりも意志を重視して、主意主義に傾くというのが教科書的理解と思う。

2011-04-29 23:38:00
@Kn_D0

@adamtakahashi ああ、そっちか。なるほど。そうですね。

2011-04-29 23:39:37
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 というのも、主知主義的に考えると、神の創造の前に事物の本質が規定されてしまうことになるからね。だから、13世紀後半の禁令で、神の「意志」の絶対性が主張されて、いわゆる唯名論者の世界へ入っていくわけです。

2011-04-29 23:41:09
@Kn_D0

@adamtakahashi そうすると、ますますおいらはトマス的なわけですな。うーむ。

2011-04-29 23:42:14
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 一応、最低限確認すると、形相というのは、中世的感覚でいえば、あくまで事物の「本質」を規定する「原理」であって、単なる「形」ではないわけです。

2011-04-29 23:43:25
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 で、本当は「実体的形相&質料」の組み合わせが、その後どういう歴史をたどって、デカルトの「延長」の話につながっていくのか、というのが興味深いところなのだけれど、それは Robert Pasnau の新刊 Metaphysical Themes をご覧あれ。

2011-04-29 23:45:17
@Kn_D0

@adamtakahashi 単なる形ではないのはもちろんそうですね。なるほど、とすると、トマス的な自然観とデカルトとスピノザの自然観の関係づけは、興味深いですね。というかその本を買って読みまする。

2011-04-29 23:47:09
@Kn_D0

と思ったら思いのほか高いので、図書館で借りれないかな。

2011-04-29 23:48:57
@Kn_D0

こういうとき科研がないのがつらいなぁ。

2011-04-29 23:51:31
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 で、「知性」とは何か?というの話だけれど、何度か説明したように、アリストテレス主義者トマスにおいては、「物」→「感性」→「知性」というのが人間の認識の枠組みで、「知性」から「物」へという直接の経路は立たれているというのがポイントなのですね、何度か言ったけれど。

2011-04-29 23:58:42
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 トマスにおいては、知性の対象は「物(それ自体)」ではなくて、感性を介して知性へと伝えられた「可知的形象」であって、それを介して事物の「本質」を知る、という枠組みだから(こうして、最終的に、物と知性の一致が生じる)。だけれど、ややこしくなるのは、ここに唯名論者以後

2011-04-30 00:00:52
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 つまり、アウグスティヌスの『キリスト教の教え』とかによって感化された人たちが、人間の「記号」(sign)のシステムを導入してくることで、アリストテレス的な認識のシステムの上に、言語哲学的な問題が乗っかってくるわけだ。

2011-04-30 00:01:45
@Kn_D0

@adamtakahashi なるほど。だから言語哲学よりの解釈をする人は、みなこぞってアウグスティヌスを重視するわけなのね。

2011-04-30 00:05:03
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 (あくまでこれは僕の知識の水準での議論で、一応こう理解しているという程度なのですが・・・)「形相」「本質」などを「知解する」という「知性」の問題が、知性にとって問題なのは、概念的な把握であるという理解へとおそらく14世紀以後変わっていくのではないか、と。

2011-04-30 00:05:39
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 だから言語哲学よりの解釈をする人は、みなこぞってアウグスティヌスを重視するわけなのね。>あ、そそ。それは間違いない。日本語の文献では分からないけれど、それは教科書的にそうだと思う。たとえば、こう考えれば良いと思う。

2011-04-30 00:06:39
@Kn_D0

@adamtakahashi でも、むしろそこで問題になるのって 、そもそも概念ってことで何を考えてたかってことじゃなかろうか。たとえばスピノザの概念って言葉は、まったく言語的ではないですね。

2011-04-30 00:07:03
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 つまり、アリストテレスのぶよぶよした認識論を形式化?したのがトマスで、アウグスティヌスのキリスト教的な言語論を形式化したのが、オッカムだ、とか、そういう感じで。

2011-04-30 00:07:29
@Kn_D0

@adamtakahashi ちなみに僕が概念ってことをいうときも、一義的には、言語ではなくて、普遍性のつかみだされたものです。言語はあくまで二義的なものにすぎない。

2011-04-30 00:08:17
@Kn_D0

@adamtakahashi もうすこしいっちゃうと、概念って、物から可知的形象を介して得られた物の内在因みたいなものとして理解してるんですよね。ある種の力と言うか、生み出すものというか。

2011-04-30 00:09:53
Adam Takahashi @adamtakahashi

@Kn_D0 そもそも「概念」て・・・>それも、再度の登場だけれど、中世の「可知的形象」の議論が、近世の「概念」とか、そのようなものへと変容していく過程は、Spruit の Species Intelligibilis に詳説されています。

2011-04-30 00:13:35