- JunNakagawaWork
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習作をべつにすれば、他人の描いた物を真似る芸術家はいないでしょう、二番煎じは作品にならない。画家は習作では先人の絵を模写するが、模写して咀嚼する。作家でも同じだし、我々凡人でも、手本と仰ぐ人の文を倣うでしょう。
2019-02-03 18:28:21作家・画家が「事実」と向きあって、それを観ていかに描いたか、それを語る物は当の作品の他に無いのだから──「全身全霊を傾けて眺めつゞける」(亀井勝一郎)他にやりかたはない。わかりきった事だけれども、単純な事ではない。
2019-02-03 18:29:55長いあいだ一つの仕事に就いている人たちの中で、常に自らの仕事を意識してその価値を問い質(ただ)し工夫を重ねて探究している人が 「熟練」 に値するのでしょう。
2019-02-03 18:30:23私は、システム・エンジニアとして、モデル論を30年近く探究して来ました。聊かの自惚れも持たないで、私は「熟練」の範疇に入ると云っていいでしょう。この仕事に私の喜びも悲しみも託して、私はこの仕事の特殊な具体的技術の中に私の考えかたを感得しています。
2019-02-03 18:30:51仕事のうえで、新たな着想を技術として実現した愉しみだけではなくて、勿論、着想を技術として具体化できない凡才の絶望感も味わって来ました。先人の天才的論文を読んでもわからない自分の凡才を嘆いて、仕事を辞めようと思った事も幾たびかありました。
2019-02-03 18:31:28仕事が呪いの様に感じた事も体験しています。それでも、自分の思考を刻印したTM(モデル技術)という現実の形を創ろうと勤労して来ました。仕事において、掛け値なしに、私は真摯であった事は事実です。
2019-02-03 18:32:02私は友人たちに多大な迷惑を掛けてきました。仕事を離れたら、私は ぐうだらです。正確に言えば、仕事の他はどうでもいいと考えているふしがある──礼儀作法がなってないし、衣服にも無頓着です。
2019-02-10 18:16:56亀井勝一郎氏は、「熟練性こそ教養だと言ひたいのである。またそこにこそ道徳の基礎がある」とおっしゃっていますが、私のような人物は「(知的努力の)累積が彼の人格を磨き、在るがまゝのすがたで、何か底光りを発してゐる」かどうかは推して知るべしでしょう。ゆえに、私は「教養人」ではない。
2019-02-10 18:17:35仕事の分業化した、そして仕事の機械化が進んだ現代では、「熟練者」は、限られた職にしか見いだせないのではないか。したがって、職業に根ざした「道徳」も「教養」も陳腐に聞こえるのは、(知的努力の限界を示す様な)「熟練」を要する仕事が殆ど存しないからではないか。
2019-02-10 18:18:05マニュアル通りに事を為せば良い(あるいは、マニュアル通りに事を為す事をもとめられている様な)仕事において、知的探究を期待する事はできないでしょう。現代では、手続き化された仕事において たとえ巧みな人であっても下卑た人物であるという現象は、それほど奇怪ではないのでしょう。
2019-02-10 18:18:43私は仕事(モデル論の探究)の中で充実しています。しかし、そうするには、支払った対価は余りにも大きかった──モデル論を探究するために私生活を犠牲にして購われた不幸な充足感です。そう言ったからといって、私はセンチメンタルな感情に浸っている訳じゃない。
2019-02-10 18:19:1520年を費やして制作したTM(モデル技術)は数学基礎論から逸脱していない事──原論の確かな脈絡の中を確実に歩いている事──を知って、私は喜ぶと同時に ため息も漏らしている次第です。探究の行き着いた先が、(数学上の)平凡な結末だったにすぎないという逆説的な充足感です。
2019-02-10 18:19:54