藝術作品で絶對に必要とされる自由は、「發表の機會の自由」と云ふ政治的な自由ではなく、「作品の内容をダイナミックなものとする爲の精神の自由」である。前者が確保されてゐても、後者が存在しなければ、藝術と云ふものは存在し得ない。
2011-05-13 04:41:08世間の評價、市場の評價、と云ふものがあり得る民主社會において、國民を代表する政府・行政の評價、と云ふものを認めない事は、或意味、民主主義の理念そのものを否定する考へ方である。
2011-05-13 04:42:30行政を排除したところで、市場が自律的に業界を育成する、と云ふ發想は、リバタリアニズム的だが、市場の自律性と云ふものが果して「ある」のか、と云ふ問題。個人的には市場原理主義は餘り當てにならないと思つてゐる。それこそ國や行政が當てにならない以上に。
2011-05-13 04:45:15「思想とエロの抱き合はせ販賣」と云ふのは結構あると思ふが、思想に限らず、いろいろなものが抱き合はせにされてエロを正當化するのに利用されてゐる。
2011-05-13 05:07:55ごまかしの爲にバンドルされてゐる思想や知識の類を排除して、エロだけでエロ作品が價値を主張出來るのか、と云ふ問題。。
2011-05-13 05:08:33知識・思想を賣込む爲に、エロやら何やらがバンドルされてゐる事は非常に多い。最近の例ではもしドラや数学ガール。
2011-05-13 05:09:36もえたんだとまともな知識の方よりもネタの方が賣りになつてゐる。この邊は匙加減の話で、程度はともあれ抱き合はせ販賣である事に變りはない。
2011-05-13 05:11:05何れにしても、知識・思想の部分と、エロやネタの部分とが、抱き合はせにされてゐるだけなので、それらが渾然一體としたものに昇華されてまではゐない場合が極めて多い。
2011-05-13 05:12:30さうしたものに「價値を認める」と言ふ場合、吾々は全體としての完成度を言つてをらず、知識の傳達・思想の説明の部分が「役に立つ」とか、エロの部分が「使へる」とかネタの部分が「笑へる」とか、さう云ふ事を言ふ。
2011-05-13 05:14:28ところで、個別の部分が全體から異樣に浮上がつて場違ひになつてゐる時、非常に滑稽で、大變面白く感じられる。吾々がさうした珍妙奇天烈な浮いた部分を面白がる場合、作品は全體として屑と云ふ評價を下す事が極めて多い。
2011-05-13 05:16:55「思想・知識とエロ・ネタの抱き合はせ販賣」のコンテンツについても、吾々は「個別の部分を面白がる」と「全體としての評價」とを區別して考へなければならない。
2011-05-13 05:18:47時・ところと言つた「文脈」も含め、表現者の意圖・狙ひも勘案して、或作品の全體としての價値と云ふものを吾々は評價しなければならない。
2011-05-13 05:20:37一般論として「路上パフォーマンス」があり得るとしても、「路上での露出と云ふパフォーマンス」が成立ち得ないとしたら。「藝術」が必ずしも「表現の自由」を實現する爲の大義名分たり得ない事。
2011-05-13 05:22:49先日言及した季刊SFアドベンチャーの最後の号(特集・笑撃文学)の卷頭に、イギリスで初めて日本人が指揮した御芝居が官憲の手入れを喰つて途中で上演打切に、なんてのが載つてゐたけれども(本當の事か何うかは知らない)、エロが藝術の名の下で正當化されるか何うかは結構疑はしいものがある
2011-05-13 05:26:31御芝居のエロが藝術の名に據つて正當化されず、路上パフォーマンスのエロが藝術の名に據つて自由を主張し得ないならば、本のエロが藝術の名に據つて自由を滿喫できると云ふ根據は何だらう。
2011-05-13 05:27:32自分の因果応報に責任を持つのが自由ならば、罪を負う覚悟で犯罪をするのも、一種の自由では?まあ倫理的には許されない覚悟かもしれませんが。。。違う意味の自由ですか?RT@nozakitakehide しかし、自由と言つても「泥棒をする自由」「殺人を犯す自由」なんてものは認められない。
2011-05-13 10:50:04規制されて毒にも薬にもならなくなったエロのほうが興味がもてそうですか?RT @nozakitakehide 俺なんか、今の「世間に認められ過ぎたエロ」なんかには全然興味が持てない。
2011-05-13 12:05:54@shinobu_vagranc 規制されたくらゐで毒にも藥にもならないやうなものに成下がるエロなら最初からダメです。
2011-05-13 17:41:35@nozakitakehide エロに思い入れがない人と、エロについて話し合うのは、ものすごく無駄な時間だったと反省しました。では。
2011-05-14 21:38:57