【鴻門の会】項伯は項羽を破滅に追い込んだ裏切り者? 公正な心優しい義人? 項羽のおじ・項伯について語る
- mamesiba195
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@mamesiba195 項伯=項燕の長男説を採用するなら、本来なら総帥になるべき立場の人だったんで、礼節を重んずる項羽は項伯に強く出れなかったとか想像出来ますかね
2019-06-30 18:49:36@saihinoti なんで字が伯かは分かりませんが、季父とある上にあっさり項羽が魯公として項氏の代表になっているし、項梁時代は項它の方が上っぽいので、叔父だとは思いますが、任侠としての義を守っているので、項梁よりも項羽の方が項伯を信頼していたのでしょう。左令尹は実質・宰相ですし。
2019-06-30 18:56:18項伯についての一つの意見として面白いのが、名前から分析するなら彼は項燕の長男であり本来なら項氏の総帥になるはずだったのが、弟の項梁や甥の項羽がその総帥になっており、内心面白く無かったので劉邦サイドに有利なことをホイホイやったという説
2019-06-30 18:25:26こういう「弟や甥にライバル心を燃やすどす黒い項伯」というのを描いたのが、塚本靑史先生の「項羽」 作品としては正直びみょーだが、気が良いおっさんキャラがテンプレな項伯をこう描いた点は評価できる
2019-06-30 18:27:02項羽の欠点として語られる「血縁ばっか重用した」というのを体現してるのが、実は項伯だったり 先程の引用RTでも触れられているように、鴻門の会後の項伯は劉邦から謝礼を受取り、彼に巴蜀だけではなく漢中も与えられるように動いた この漢中授与が劉邦叛乱の大きな足がかりとなる
2019-06-30 18:32:17項伯のこの行動は任侠的な分析もすべきであり良いか悪いかは一旦置いておくが、項羽陣営からすれば「あいつが口利きしたせいで叛乱起きとるやんけ!」となったのは事実だろう ところが項羽は項伯をその後も傍に置き続ける
2019-06-30 18:33:44英布を討伐した後、その領地へ戦後処理として派遣されたのが項伯 広武山で劉邦の親父を殺そうとした時も項伯の進言で取り止めているが、これは項伯が項羽のすぐ傍におり、かつその発言を用いられる立場だったことが伺える つまり項伯は項羽の側近ポジであり続けたらしい
2019-06-30 18:35:29項伯がかばったり口利きしてやったやつが叛乱起こして項羽の最大の敵になってるのに、項伯を遠ざけた様子が無い これが韓信らが言うところの「項羽は血縁ばっか重用する」というのの一番の証拠だろう
2019-06-30 18:37:24項伯について語る
※ここでmameisba195が語っている内容は、河東竹緒さん(@rivereastbamboo)に以前、ご教示いただいたことを元に語っていることが含まれます。
これ確か司馬遼太郎も『項羽と劉邦』の中で指摘してたな。 確かに「豎子共に図るに足らず」の後に「項王」って来るんだから文脈的には「豎子=項羽」ではなさそうだし。 twitter.com/mamesiba195/st…
2019-07-03 19:27:32豎子=項荘説の初出は、学研「歴史群像シリーズ 項羽と劉邦 上」の奥崎先生かな? 出典は書かれず、自説のように展開している。范増の「豎子」発言が、項羽の前で言っているように見える記述、項王という言葉が直後に出ていること、范増の「情に厚い」という項羽評が根拠だったけど、説得力あったな twitter.com/dtf_gorakunin/…
2019-07-03 19:24:10@niseyoshimoto 「豎子=項羽」とするのが有力であるとあるのでオリジナルではないかもしれませんが、范増が忠臣っぽく、亜父に相応しい態度で、そっちの方が納得いきますね。 項王則受璧,置之坐上。亞父受玉斗,置之地,拔劍撞而破之,曰:「唉!豎子不足與謀。奪項王天下者,必沛公也,吾屬今為之虜矣。」ですから
2019-07-03 19:37:43@mamesiba195 返信ありがとうございます。そもそも宴会中に剣舞を謀ったのは范増と項壮ですから、しくじった項壮を罵るのが自然な気がするのです。しかもよく読むと時系列は玉斗を頂いた直後で項羽の面前ですから尚の事。
2019-07-03 19:43:48@niseyoshimoto 項伯が抗った以上、一族の年長者に逆らうことは難しく、後からの報復もありえるので、項荘もそこまで言われたら、気の毒ではあるのですが。逆に言えば、一応は追い詰めようとしていたところを見ると、項氏から見ても項伯の行動は疑問があったのでしょう。
2019-07-03 19:52:41@mamesiba195 鴻門の会の内容が事実かどうかはともかく、項氏内部の不協和音が反映されているというのは間違いではなさそうですよね…。最近知ったのですが項梁亡き後主導権を巡って項伯(実の兄弟)と項羽(甥)の関係にひびが入ったとかいう仮説があるようです…
2019-07-03 19:57:20@niseyoshimoto ネットで言われている仮説ですね。自分は、項伯は張良と一緒に逃亡しようとするぐらい侠の精神があるぐらいですし、項羽と折り合いが良いとは考えにくい懐王と宋義が特に項伯と項羽が権勢を分けるようには仕向けてないので、その仮説はただの深読みに過ぎないとみています。
2019-07-03 20:50:54@mamesiba195 そうですね、特に史記にも何も記述が無い時点で、あくまで印象から立ち上げた説みたいな感じはあります。提示されたカード以上のものを提示するなら証明しないといけませんが、証明のしようがないモノはあくまで妄想ですし…
2019-07-03 20:56:05@niseyoshimoto 項伯を長兄とする説によっても、項梁の段階で揉めている必要がありますし、主導権が欲しければ、項梁の死の時に宋義たちに言って普通に奪えそうなのに奪っていないです。項伯が項羽の父の弟とすれば、家督的に項羽に行きますし、軍閥継承では多大な軍才と功績のある項羽と比べ物にならないでしょう。
2019-07-03 21:01:58@mamesiba195 項羽の軍功は絶大ですから項梁死後に後継になるのは当然ですし、甥っ子とはいえ事実上項梁の息子である項羽に一族の全権が委ねられる流れに抵抗した形跡が無いですね…。伝統的な文化として兄弟間で無く子息継承が当たり前のお国柄を忘れているような論ですな。
2019-07-03 21:21:36@niseyoshimoto 軍も項梁直属の軍以外は項羽が大将で掌握しています。項伯が守備もしくは項梁の補佐で軍の功績が記録に残っていないだけとしたら、後でも左令尹ではなく、将軍に任命されているのではないでしょうか。また、楚漢戦争でも項声や項他みたいに軍を任されていません。
2019-07-03 21:28:52@mamesiba195 言われてみれば確かに項伯独自の軍事行動って記録はないですね…密かにとはいえ大胆に義侠によって(?)張良の為に漢の陣に行けるような軽率な行動を考えたら、一族間でも権力抗争対象の人物ではなかったのかもしれません。
2019-07-03 21:41:24@niseyoshimoto 確かに。左令尹って楚の筆頭宰相という意味でしょうが、司徒だの上柱国だのもいて、どこまで実権があったのか。英布の軍を収めたことだけが唯一の功績です。項伯の名が「伯」なのもわざわざ「季父」と司馬遷が断りをいれているから項羽の父の弟の方がはるかに可能性が高いでしょう。
2019-07-03 21:48:13※なお、中国史学者である佐竹靖彦先生は、その著作『劉邦』(小説ではなく、歴史概説書)において、『項伯すなわち項纏は、項羽の季父であるのに、『史記』では項季と呼ばれずに項伯と呼ばれている。この点については、古来から説があるが、これは劉邦が項伯に兄事した結果、劉邦の陣営においては、かれは項伯、すなわち、「項の伯父貴」と呼ばれることになったのであろう』という説を唱えています。
@mamesiba195 楚の感触は勉強不足でよく知らないのですが、左令尹が名誉職であった可能性は無いのでしょうか
2019-07-03 21:54:49