教育と武術・武道

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光岡英稔 @McLaird44

このことは武術/武道の世界を始め、教育、習い事、親子関係における根本的な師弟関係、生徒と先生の関係を見直す上で考えた方がよいことである。 twitter.com/shouseikan/sta…

2019-07-19 17:19:07
甲野善紀 @shouseikan

それは、前述したような、呆れかえるような問題のある人達の場合は、殆どの人間がその事に気付くから、わざわざ近付こうという者もいないが、多くの人の共感を呼ぶ、物の道理がわかっているような雰囲気の人物の場合は、その事で尊敬もされ、近づこうとする人も少なくないからである。

2019-07-19 02:27:18
光岡英稔 @McLaird44

これは以前に私が「生存教室」の題材として扱った「マンガ・暗殺教室」にも幾つかのパターンで書かれているが、 「一見生徒思いの振る舞いをする、実は暴力体育教師の元自衛隊教官 鷹岡先生」 「教育熱心な支配者である本当は不完全な弱者を淘汰して行きたい浅野理事長」

2019-07-19 17:19:08
光岡英稔 @McLaird44

「自分の復讐と思惟的なエゴ満たすために弟子を実験台的に作り出すシロ(柳沢 誇太郎)」 など様々な指導者、親的立場の人間の支配性を上手く扱っている所が「暗殺教室」を様々な分野の指導者、先生、リーダーと生徒、弟子、学生、信者に読んで欲しいところでもある。

2019-07-19 17:19:08
光岡英稔 @McLaird44

武術/武道の先生、宗教(新興宗教、古典宗教を問わず)、教育者などが持ち合わせる「自らの弱さとエゴを隠すための良き人面 問題」とでも言おうか、

2019-07-19 17:19:09
光岡英稔 @McLaird44

この「自らが自らを偽る行為」こそが、武術/武道、宗教、教育、政で挑戦されるべく基本中の基本であり最も本質的な事柄でありながら、そこを避けて逃げるために武術/武道、宗教、教育は最も利用されやすい。

2019-07-19 17:19:09
光岡英稔 @McLaird44

それも武術/武道における師匠や教育における先生、宗教におけるリーダーは生徒や信者をいとも簡単に誘導し操れる立場にある。そしてリーダーや先生、師匠の偽りが宗派や流儀の偽りとなり、それを取って付けたような理念で隠す行為で新しい人たちを騙し騙し増やして行こうとする。

2019-07-19 17:19:09
光岡英稔 @McLaird44

武術家、武道家たる者、そもそも「民主主義」「〜〜主義」などに踊らされている時点で後れを取っていることに気づけねば基中ノ基にも至っていないことになる。難しいことは分かっている、しかし、そこに挑戦せずして何に挑戦するか武術/武道を嗜む者には訊きたい。

2019-07-19 17:19:10
光岡英稔 @McLaird44

これは、私は思想を持つことを否定している訳ではない。ただ、思想を持つに持つなら「思想の根底に自分が居ること」と「その自分(思想)は、自らの何を、どこを、なぜ規範としているのか」は知っておくべきかとは思う。そうすれば思想を持つことも、そう害にならない。

2019-07-19 17:19:10
光岡英稔 @McLaird44

一つ、武術家として言うなら歴史上など如何なる観点から見ても「身体なき思想は存在しない」ことと「身体なき武術は存在しない」ことである。また、身体とは思想・技術以前の人間の姿形である。

2019-07-19 17:19:10
光岡英稔 @McLaird44

できることなら私は武術/武道を「逃げ」のための方便には使って欲しくない。それはオソラク私だけでなく様々な流儀流派を築いて来た先人たちも共通してそうかと思う。内面的な「逃げ」や「避け」には武の本質はない。

2019-07-19 17:19:11
光岡英稔 @McLaird44

かと言って武術/武道を「攻め」だけに使うのも経験からして長く持たず疲れ果ててしまうのと、結局は何処かで自分に隙を作る要因になる。よって「攻め」の技術技法、身体性は初心者の内は多少は大切で、攻めの正確さが養われるならいいが、後に軌道修正は必要である。

2019-07-19 17:19:11
光岡英稔 @McLaird44

よって「攻め」や「逃げ、避け」でもないなら何を求めるかだが、そこに「形」を「型」を通じて「機、位、間」を見極める体系を“第三の選択”として私は提示している。

2019-07-19 17:19:11
光岡英稔 @McLaird44

「型は成立するや否や」を示す規範となる「位、機、間」は型なき体系では見極めることが極めて困難であり、見極めること自体が型(他者)との関係性が有って初めて成立するからである。

2019-07-19 17:19:12
光岡英稔 @McLaird44

例えば、相手を必要とする組み型や対人稽古を主とする体系においては、相手と言う他者、体系と言う他者(師や先人、伝承者など)、自分の内面に居る他者(異なる身体性・身体観、先祖)の間を私が保つことで成立する。

2019-07-19 17:19:12
光岡英稔 @McLaird44

技の掛かる掛からないは単独の対構造からなる。しかし、実は“技”も「型」の一部に属す動法であるが故に、当人は無自覚かも知れないが、それは「型」の一部の抜粋である。

2019-07-19 17:19:13
光岡英稔 @McLaird44

ある“技”が掛かり成立するには、その技が掛かる前提条件が必要となる、その前提条件こそが型の外枠であり、その前提条件の内実こそが身体(他者)である。

2019-07-19 17:19:13
光岡英稔 @McLaird44

そもそも武術/武道において、 何を論点に是と非を説いているのか? 何を規範に問いを立てているのか? 何を規範に答えを導き出しているのか? 何故それを答えとしているのか? そこを考える必要が現代武道/武術には十二分にある。

2019-07-19 17:19:13
光岡英稔 @McLaird44

それは武術/武道の指導者、関係者だけでなく教育関係者、宗教に携わる人間、更には政に関わる人間なども自分に問うてみて良いことである。 武術/武道においては「百の論より出来て、やってなんぼ」を初心の目標とし、次に「なぜ出来、なぜそうするのか」を指導者は知っておいて然りかと思う。

2019-07-19 17:19:14
光岡英稔 @McLaird44

他のジャンルは言葉が多く論が前提条件の規範となる分野なので、言と論を即行動で示せない矛盾を抱えており「できてなんぼ」など武の初心にも至ってない場合が殆どだが、それならそれで最低ライン、自分の論点の規範を明確にし、そこから論理性云々に移る必要がある。これは「最低ラインの事」である。

2019-07-19 17:19:14
光岡英稔 @McLaird44

まあ、武術/武道の場合はその哲学や思想を最低ラインの論として築けたとしても、そのせっかく構築した論が一感一動で一蹴される場合も多いにある。 論は論で立てて行く必要があるが、武術/武道の場合は「実」の伴わない論は瞬時に覆されてしまう。

2019-07-19 17:19:15
光岡英稔 @McLaird44

しかし「実」を規範せず「論」を規範とする武道が近代化の流れの中で出来てしまったからには、何が武における「実」かを武術界/武道界の人間が明瞭にし、ある程度は示せ、定義るようにしておく必要を感じる。 雑誌で見るように何でもかんでも武術っぽい、武道っぽければ武術/武道な訳じゃあない。

2019-07-19 17:19:15