言語と武術の複数 併習 習得のベースとセカンド

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光岡英稔 @McLaird44

私が武術/武道関係者を見ていると、ある事に目が行く。 それは指導や稽古している当人に自覚があろうとなかろうと、その人の行為、動き、価値観が気づかずして当人の最初の流儀流派か時間を費やした流儀流派になっている所である。

2019-12-06 18:01:32
光岡英稔 @McLaird44

面白いことに当人からすると新たな発見があったり、新たな気づきがある訳だが、実は無自覚に身についた母語のように「母語流派」の価値観の中で当人は新たな気づきや感覚を得ているだけである。

2019-12-06 18:01:34
光岡英稔 @McLaird44

これは一見、多様性に満ちていたり新た発見が連続しているように見えるが、実は当人が気づかない内から身につけた母語的流派が基礎となり、そこに類似する価値観や体系との基礎の共有を気づかずはじめる。ようは自らの価値観や価値感に引き寄せて他者を観て居る訳である。

2019-12-06 18:01:34
光岡英稔 @McLaird44

例えば他人事ではなく、空手なら空手、少林寺拳法なら少林寺拳法、合気道出身者なら合気道が母語流派になり、そこから習う他の流儀流派を合気道に引き寄せて理解しようと無自覚・自覚の有無を問わずそうしてしまう。

2019-12-06 18:01:34
光岡英稔 @McLaird44

他の流儀流派を母語流派として持つ者も、太極拳なら太極拳、〜〜拳などの中国拳法なら中国拳法、〜〜流古武術なら古武術と同じく気づかずか気づいてか母語流派に引き寄せて他の体系へ取り組もうとする。

2019-12-06 18:01:35
光岡英稔 @McLaird44

仮に母語流派を否定していても、肯定も否定も同じく其の母語流派の価値観に拘束されているので母語を用いて母語を否定しているような構図になる。 ここは永遠に否定し続けても「ある流派・体系の否定⇔肯定」のループから抜けられない三界六道の三悪道をグルグルするようなものである。

2019-12-06 18:01:35
光岡英稔 @McLaird44

しかし、これを言語学的に考えてみると面白いことが分かる。それは母語は母語として常にある訳だが、第二言語や第三言語、すなわち武術/武道で言うところの二つ目に習った流派、三つ目の流派を習得する上で、実は言語習得においては異なる言語圏の体系を対応させて習うことは二度手間になっている。

2019-12-06 18:01:35
光岡英稔 @McLaird44

母語と第二言語が比較的身近な同語源の言葉なら、多少は対応ができるし、文法構造が同じだったり、各動詞、形容詞などの法則性が同じであったり各名詞や固有名詞などが似ていたりすると対応させて習得することもできる。

2019-12-06 18:01:36
光岡英稔 @McLaird44

しかし、文法構造から形容詞、名詞、文字自体やイントネーション自体が全く異なる言語体系を習得するには、母語を対応させることは二度手間になる。その新たに習得を試みている言語を新たな母語として身に付けて行くことの方が、“その”言語の習得はスムーズに身につく。

2019-12-06 18:01:36
光岡英稔 @McLaird44

例えば日本語の発音が習慣としつ身についていると、もし第二言語がアラビア語なると「発音の仕方、文法構造に影響される思考パターン、書き方、総括して身体観」などが全く対応が効かない。それが日本語とマサイ語のように文字文化圏と無文字文化圏だと更に対応が効かなくなる。

2019-12-06 18:01:36
光岡英稔 @McLaird44

無論「人間に纏わること、人間の行為」のように括りを大きくし「食べる、寝る、歩く、ようを足す」のような動詞の意味には同じ意味が内包されている。が、

2019-12-06 18:01:37
光岡英稔 @McLaird44

何を食べるか?何処にどのように寝るのか?どの様な地形や環境を歩くのか?どこでどの様にして用を足すのか?などは生活において知らねば致命的になる。ここに行為における文化性と身体観が関わってくる。

2019-12-06 18:01:37
光岡英稔 @McLaird44

また、なぜ最終的には異なる文化圏・言語圏を言語対応させずに何かを習得する必要があるのか、その意味も含まれてくる。 これは私たちの脳が何かを認識する時に自動的に過去の経験などを検索し最適解を導き出そうとすることなどとも関係している。

2019-12-06 18:01:37
光岡英稔 @McLaird44

また習慣や風習として身についた文化性が個々の身体にはあり、その無自覚にも身についた身体観・文化性こそが私たちのアイデンティティーや気づかない内に築いている自分の価値観の基礎にもなっているかである。

2019-12-06 18:01:38
光岡英稔 @McLaird44

それと同時に体は経験的に変り逝く刹那々々の中で過去の経験そのものに頼れないかも知れないことを感じ、体認しつつ存在している。しかし、身体の有形無形・有感無感の法則性があるようにランダム(無規則)だがカオス(混沌)ではないし、知覚できる範囲だけだが其処に法則性もある。

2019-12-06 18:01:38
光岡英稔 @McLaird44

日本語の「ありがとう」と英語の「Thank you」、中国語の「謝謝」、マサイ語の「ashê olêŋ」は意味として大体おおまかには同じだが、言語形成過程においては全く異なる文化性から言語が形成され異なる身体観をバックボーンに持っている。

2019-12-06 18:01:38
光岡英稔 @McLaird44

その観点から異なる流儀流派を見直してみると、人間だから大体が共通する四肢の手足が二本ずつ、頭が一つ、胴体が一つ、何らかの言語形態を操る、道具を使う、などなど表面的な相似性から言語を操るところなど一部内面的な相似性があることは確かだが、

2019-12-06 18:01:39
光岡英稔 @McLaird44

それ故に空手もボクシングも、中国南北の拳法も左を使って右手を使い、左足か右足で踏み出す行為が同じだから同じだ!などと安直に言うなら其の人の武術/武道に関する知見が余りにも浅いとしか言いようがない。

2019-12-06 18:01:39
光岡英稔 @McLaird44

このような見解は私たちが人間の存在や文化性、身体観を大雑把に甘く見過ぎている証でもある。また一貫した全てを統括する共通の法則性に辿り着きたいが故の人間特有のゴッド・コンプレックス(全てを解明した神になりい願望)の現れでもある。

2019-12-06 18:01:39
光岡英稔 @McLaird44

たしかに、同じ人間なので大なり小なり身体の動き方は文化圏を問わず似てくる。が、武術に携わる者なら表面的な動きの共通性に目を向けるのではなく、その動きの裡にある働きや動機に着眼して然りかと私などは考えてしまう。

2019-12-06 18:01:40
光岡英稔 @McLaird44

私の主催する兵法武学研究会においては「突き」「パンチ」「ストライク」「当て身」「打拳」などは明確に分けて用い、説明している。 これらを全て一括りにし説明する方が楽は楽だが、違いが判る以上は自分に嘘はつけない。

2019-12-06 18:01:40
光岡英稔 @McLaird44

例えば punch の語源はラテン語のpungere(穴を開ける)に由来する。 そこから punch は「孔抜器、穴あけ具、打印器、パンチ(突き刺して孔をあけるもの、切符などを切るもの、行為)、こぶしの一撃、げんこで打つこと、パンチ力,(話などの)迫力,効果,」のように用いられるようにもなった。

2019-12-06 18:01:40
光岡英稔 @McLaird44

strikeの意味と語源は「ゲルマン語のstreyg(なでる、打つ、押し付ける、圧をかける)」 で、strike(打つ)→striken(打つ)→strican(なでる)→strikana(なでる、こする、磨く)→ streyg(なでる) の語源への流れからなる。stroke(なでる)も同じ語源をもつ。

2019-12-06 18:01:41
光岡英稔 @McLaird44

また「streyg」から派生したゲルマン語の「strikana(なでる、こする、磨く)動作のようにさっと通ること」も単語のコアの意味となった。関連する言葉ではstress (圧が掛かる)もstreyg(なでる)を語源にもつ。

2019-12-06 18:01:41
光岡英稔 @McLaird44

また武術的な「突き」は棒術の感覚経験や槍術、杖術の感覚が伴う経験である。 また本州などでは「米や餅を搗く」風習から“搗く(つく)行為が一昔前なら親しみ易かっが、いまは自分で玄米を精米するために搗いたことのある人は少ないだろう。(続く→)

2019-12-06 18:01:42