『真の客観』――零れ話――
- karaisan123
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『真の客観』――零れ話――
世界を悲劇的だと思い込む本能、ドラマチックな見方。それらは要するに主観であって、そういうものに支配されるのはよくない、と思う方もいるかもしれないのだ。自戒の意味で考えたとしたら、それは立派な方なのだ。
2020-01-01 11:12:08「真の客観」。それは、価値判断を一切行わないということなのだ。意思による恣意を放棄し、あるがままに認識する。そうするとどうなるか。
2020-01-01 11:12:24目の前でイチャつくバカップルも、幸せそうな老夫婦も、何億も儲かってる敵の多いyoutuberも。飢餓も、貧困も、虐殺も。何も存在しない、ただの虚無も。 すべては等価値となるのだ。
2020-01-01 11:12:29主観なき客観は、存在できないのだ。 とりわけそれが思考するなら、「真の客観」の持ち主など、絶対にあり得ないのだ。もしコンピューターの電子計算が客観だとするなら、紙に書いたメモは客観的思考の持ち主なのだ?
2020-01-01 11:12:43どちらも記述に過ぎないのだ。人間もAGCTの四文字による記述だとするなら、今度は真の主観なんてないって話になるのだ。デカルト的には、それよりは主観ベースの方が納得がいくのだ。
2020-01-01 11:12:47そもそもコンピューターには、「与えられた論理通りの正しい計算を出す」という主観が与えられているのだ。単純な計算に客観を当てはめるなら、彼らの計算にもまた主観はあるとも言えるのだ。 「間違っていてもいいじゃないか」が主観なら、「正しくなければならない」もまた主観なのだ。
2020-01-01 11:12:58「客観的に見て正しい」? 客観に正しさなど存在しないのだ。ただそうある、というだけのものが「真の客観」であり、それ以外のすべては「偽の客観」なのだ。
2020-01-01 11:13:05けれど実社会においてはこの「偽の客観」の使い勝手がいいので、主観をちょっぴり客観に寄せて「客観的な考え方」とかやっているのだ。それは便利だし、上手い使い方ではあるのだ。 ただし「私は主観を一切挟まない、客観的な人間だ」なんてことを言ったとしたら、それはただの誤謬に過ぎないのだ。
2020-01-01 11:13:16幸せな老夫婦と虐殺、そしてどちらでもなく何もないことを等価値だと思えることは、素晴らしいことなのだ? 客観的で、とても冷静な立派な人なのだ? そんなわけはないのだ。それはただ、無意味なだけなのだ。何も思考をしていないというだけのことを、賛美してもしょうがないのだ。
2020-01-01 11:13:26あらゆる思考は主観的なのだ。そしてその大前提に立った上でこそ、「ドラマチックな見方」のような本能的束縛を自覚する意味が生まれるのだ。 主観を客観に寄せてみる。それがどこまで行っても限界で、限界を知ることが第一歩なのだ。
2020-01-01 11:13:37だから、主観を否定する必要なんてないのだ! むしろ自覚的に肯定して、「ああ、自分はこういう主観を持っているんだな」と考えることが一番良いのだ。 アイデンティティを喪失させず、社会の多様性の中で横溢する主観の波に溺れるのではなく乗りこなす。他の人の主観だって、公平に肯定してやる。
2020-01-01 11:13:47そうそう、Twitterの方で『三体』の話をちらっと呟いたら、予約してるって方からフォロー頂いてお話したんだけど、SF好きの人ってやっぱ結構いたりするのだ?
2020-01-01 11:14:14「平成後期から令和にかけての傑作民俗学漫画10選」みたいな記事書こうかと思ってるんだけど、SFでも需要あるのだ? もしいたらコメントで書いて貰えると嬉しいのだ。
2020-01-01 11:14:22(前記事とサムネ被り回避用にフリー画像お借りしますなのだ) pic.twitter.com/K0hecC4dhd
2020-01-01 12:19:33