ティム・インゴルド『人類学とは何か』(奥野克己・宮崎幸子訳 亜紀書房)を+Mさんが読むスレッド

+Mさんが読むスレッドシリーズ(?)【20200403追加→】ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』(筧菜奈子・島村幸忠・宇佐見達朗訳 フィルムアート社)スレッド、ならびに関連ツイートリンクとして、エマヌーレ・コッチャ『植物の生の哲学 混合の形而上学』(嶋崎正樹訳 山内志朗解説 勁草書房)、古川不可知『「シェルパと道の人類学』(亜紀書房)
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ティム・インゴルド『人類学とは何か』(奥野克己・宮崎幸子訳 亜紀書房)。 pic.twitter.com/sG2tNyn8MF

2020-04-02 19:47:46
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+M laboratory @freakscafe

「動物たちは、多かれ少なかれ、それぞれが自分なりのやり方で物事に向き合うことに没入している」が、我々人間はそうはいかない。我々は「どのように生きるのかを理解することについての、けっして終わることのない、集合的なプロセス」を生きている。

2020-04-02 19:50:02
+M laboratory @freakscafe

「道が、まだ見ぬゴールにどうやってたどり着くかの答えではないように、生き方は、生についての問題に対する答えなのではない。そうではなく、人間の生とは、その問題に対する一つのアプローチなのである。」 つまり、人間は生に「アプローチ」するという投機において、己の生を制作する存在である。

2020-04-02 19:55:40
+M laboratory @freakscafe

インゴルドは、自然・人文諸科学という「知識」(と、その蓄積)への信仰を越えて、生き方がひとつの生へのアプローチであるような、言わば“実存的”な「知恵」の地平を回復する試みを、「人類学」と呼んでいるようだ。

2020-04-02 20:01:09
+M laboratory @freakscafe

したがって、「人類学」は、数多分岐生成する「学問分野」のひとつではなく、むしろ「無数の他者と向き合う態度」そのものを指しているようでもある。そして、「他者を真剣に受け取る」には、果たして「調査」或いは「記述」というスタンスは適切なものかどうかという問いに進んでいく。

2020-04-02 20:07:12
+M laboratory @freakscafe

結論から言えば、他者“について”書くことは、適切な態度ではない。他者“とともに”在ることこそが適切な態度なのである。 だが、「他者とともに在る」とは、どのようにして可能になるのだろうか。つまり、「人類学」とは、そのことを問う「知恵」の学問なのである。

2020-04-02 20:10:43
+M laboratory @freakscafe

「(インゴルドが構想する「人類学」は)他者のやり方を解釈したり説明したりするものではない。つまり、決まった場所に他者を置いたり、「了解済み」として片づけたりしようとするものではない。むしろそれは、他者のいるところで分かち合うことであり、→

2020-04-02 20:14:10
+M laboratory @freakscafe

→生きることにおける他者の実験から学ぶことであり、また人間の生がどのようなものでありうるのか、つまりその未来の条件と可能性について私たち自身が想像するものに、この経験を注いでみることである。」

2020-04-02 20:16:47
+M laboratory @freakscafe

人間の<実存>が、完了形で記述する視点を持つことのできない、各々の生へのアプローチでしかないとすれば、そこに本来局所性を越えた「客観的な知識」が定位されることはあり得ない。インゴルドは知識/知恵を二分し、こう書いている。

2020-04-02 20:22:21
+M laboratory @freakscafe

「知識は私たちの心を安定させ、不安を振り払ってくれる。知恵は私たちをぐらつかせ、不安にする。知識は武装し、統制する。知恵は武装解除し、降参する。知識には挑戦があり、知恵には道があるが、知識の挑戦が解を絞り込んでいくその場で、知恵の道は生のプロセスに対して開かれていく。」

2020-04-02 20:25:00
+M laboratory @freakscafe

人々“とともに”「知恵」の道を探求していくこと-岩田慶治は、フィールドワークを完遂するには、「そこで生まれ、そこで死ななければならない」と書いたが、これは、参与観察の「参与」が、他者の<実存>と協働するには、自らも「そこで生まれ死ぬ」程の<実存>的な交差が必要ということなのだろう。

2020-04-02 20:33:39
+M laboratory @freakscafe

他者“とともに”あるとは、<実存>の次元で他者と協働するということであり、つまり他者とのあいだで新たな「生へのアプローチ」を創造することにほかならない。「人類学者」は、民族誌作家ではなく、他者に新たな創造の視点をもたらす「アーティスト」である必要があるということである。

2020-04-02 20:37:45
+M laboratory @freakscafe

訳者のひとり、奥野克巳は、別の場所で、人類学は存在論的転回から制作的転回を遂げねばならない、と論じているが、制作論的転回とは、つまり観察-記述という態度から、協働-制作という態度にシフトすることで、人類学を知恵の学問として再創造することを指して言っているのだろう。

2020-04-02 20:40:50
+M laboratory @freakscafe

我々が、今、ここで体験している「我々自身をその一部に含んだ世界」は、原理的に安定した構造と構成をもたない。我々が行為、認識、或いはそもそも関与した瞬間、「世界」は都度、変わってしまう。「世界はむしろ、絶えず生成しつつあるのだ」とインゴルドは説く。

2020-04-02 20:48:42
+M laboratory @freakscafe

ー「まさにそうであるがゆえに、常に形成されつつあるこの世界は、不思議さと驚きの涸れざる源泉なのである。そのことに注意を払わなければならないのだ」。 「世界」は、原理的には、絶え間ない生成過程にあり、生物無生物を問わず、物質とエネルギーの循環のなかで生滅している。

2020-04-02 20:54:25
+M laboratory @freakscafe

生成流転する「世界」をある仮設的な視点をもって切断するのではなく、そのまま把捉すると、そこに必然的にアニミズムの世界像が要請される。アニミズムとは「いのちーが石の中にある」ということではなく、「石がいのちの中にある」という世界像なのである。

2020-04-02 20:57:54
+M laboratory @freakscafe

アニミズムの世界像とは、「一元的多心論」の世界像である。インゴルドの議論では、例えば「自然」が「普遍性=一」であり、その上に「文化」が「特殊性=多」として付加されているというような、二元論的世界像は乗り越えられねばならないと考えられる。

2020-04-02 21:10:07
+M laboratory @freakscafe

例えば「自然」を「遺伝子」、「文化」を「環境」と置き換えてみると、そもそも「遺伝子か環境か」という議論は、「人間」を先験的に「内と外」に分割可能なものとして捉える誤謬が前提されていることに気づく。

2020-04-02 21:14:03
+M laboratory @freakscafe

「人間は内的な要因と外的な要因、すなわち遺伝子と環境の間で起こる相互作用の産物ではない」-人間は内と外が確定しているような「結果」ではなく、「一区切り」でしかない、とインゴルドは論じる。

2020-04-02 21:15:57
+M laboratory @freakscafe

―「人間は、人間が直面する条件ー過去に自分自身と他者の行動によって累積的に形づくられた条件ーに、あらゆる瞬間に反応しながらつくられる自らの生の産物である。」 つまり、「人間の生は一から多への道行き」ではなく、最初から「多」なのであるー「差異化は最初の時点から存在する」。

2020-04-02 21:17:58
+M laboratory @freakscafe

インゴルドは、「普遍」のレイヤーの上に、「特殊」なレイヤーが重ねられている、という二元論的世界像を、ある意味“なし崩し”にして、(そうは書かれていないがおそらくは)せいぜいが異なるタイムスケールの<系>が<重奏>する一元的な地平のうえに並べ直している。

2020-04-02 21:28:51
+M laboratory @freakscafe

<実存>を生きるとは、つまり一元論的な世界を生きるということである。そして<実存>における一元論的な地平とは、そのまま「身体」であろう。インゴルドは「身体」を「作業様式」として捉え、次のように書いている。

2020-04-02 21:29:14
+M laboratory @freakscafe

「身体性と個体発生、特定の技能の獲得と人体の発達は、文化的な条件づけと生体の成長の分割の両極に分かれているのではない。それらは同じ一つのものなのだ。私たちの身体とはすなわち私たちのことであり、私たちは身体なのだ。身体が老いれば、私たちも老いる。」

2020-04-02 21:29:43
+M laboratory @freakscafe

人はアニミズムの世界像をもって生きるとき-「一元的多心論」を生きるときー「私」を含めた個別のものは、すべて関係論的な相依性のうちに、“多を映すようにして”存在するという存在感覚を生きているだろう。「一」は、つねに多ー多の関係論のなかで存在している、というわけだ。

2020-04-02 21:35:33
+M laboratory @freakscafe

だが、こうした関係論的な「多としての私」が、近代において「一としての私」に変位することで、自己同一性は従来の「他者や共同性や場所に属するもの」から、「私が私に属するという属性」に変質してしまう。近代的な自己同一性とは、「私が所有する権利や所有物」のことになってしまうのである。

2020-04-02 21:40:58