韓信はなぜ、友人の鍾離眛を自害に追い込んだのか? 『史記』には異なる記述が記されていた!
- mamesiba195
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そして、韓信は諸侯王の筆頭として、劉邦を皇帝に推戴しています。もし、韓信が王の地位を辞退していれば、この劉邦の皇帝への推戴が一体、どのように進んだかは分かりません。諸侯王は、劉邦を項羽のような覇王程度にしか認めなかった可能性も考えられるでしょう。
2020-05-05 23:28:50また、これによって、韓信が地位や土地にこだわった、欲深い人物であるという評価が一面的であることが分かるでしょう。韓信が楚王でなければ、劉邦を皇帝に推戴するという自主的だったはずの動きは変わっていた可能性はあるのです。
2020-05-05 23:28:51二月には、劉邦は無事、皇帝に即位しています。 この頃の韓信の動きは食事を恵んでくれた老婆や、世話してくれた亭長、股くぐりをさせた不良など昔の知りあいに色々な意味で報いたことしか分かりませんが、同年の9月に事件が起きます。
2020-05-05 23:28:51年表に書かれた通り、韓信は、項羽の元の武将である鍾離眛を捕らえた上で処刑し、皇帝となった劉邦に上聞し、報告しているのです。 pic.twitter.com/mj37ZcwlQx
2020-05-06 07:04:50これは劉邦の鍾離眛を捕らえるようにという勅命に応える形で、項羽のかつて重要な将軍であった鍾離眛を討ったもので、韓信の劉邦に対する大きな貢献でした。
2020-05-05 23:28:532 劉邦からの謀反の疑いをまぬがれるため、鍾離眛を自殺に追い込んだ件について
「韓信を調べる根幹となる史料である『史記』淮陰侯列伝において、項羽の死後、鍾離眛は旧知の仲であり、親しかった楚王となった韓信のもとに身を寄せて、韓信が匿ったとある。
2020-05-05 23:36:21劉邦は、鍾離眛がいると分かると、楚に対して、鍾離眛を捕らえるように勅命を出した。それに対して、韓信は兵を連れて、県や邑を行き来しただけで、返答を返さなかった。そこで、韓信に対する謀反の訴えがあり、劉邦は陳平の策略で、狩りを行う名目で、諸侯王を陳に集めた。
2020-05-06 07:06:02韓信は、劉邦の陳への行幸と自身への謀反の疑いを聞き、謀反を起こそうと考えたが、決断しきれず、劉邦から捕らえられることをまぬがれるため、部下に相談したところ、鍾離眛を斬るように進言された。韓信は、鍾離眛へ相談への形をとって鍾離眛に自殺を強要した。
2020-05-05 23:36:22鍾離眛は、『漢が攻撃してこないのは、私とあなたがいるからである。私を斬って差し出せば、あなたも同じ目にあるでしょう。あなたは、長者(徳のある人)ではない』と言って、自分の首を刎ねた。韓信はその首をもって、陳におもむいて劉邦にとらえられたと記載されているではないか。
2020-05-05 23:36:23このことを、まるで、韓信が鍾離昩を戦場か追跡の上、捕らえた上で処刑して、劉邦に報告したなどと印象操作するつもりなのか。これは有名な話であるから、調べればすぐにわかることなのに、おかしな主張をしている」と。
2020-05-05 23:36:23しかし、『史記』には別に、「韓信は、項羽の元の武将である鍾離眛を捕らえた上で処刑し、皇帝となった劉邦に上聞し、報告している」としか読み取れない部分も間違いなくあるのです。
2020-05-06 07:07:02それは、『史記』の「秦楚之際月表」という年表の部分です。そこには、漢五年(前202)九月に、「(楚)王(韓信)得故項羽將鍾離眜,斬之以聞」とあるのです。(括弧はまとめ主が補ったもの)
2020-05-05 23:36:25「新釈漢文大系 三上 十表(一)」の書き下し文でも、「王、故(もと)の項羽の將、鍾離眜を得、これを斬り以て聞(ぶん)す」とあり、翻訳は、「楚王の韓信は、もとの項羽の将の鍾離眛を捕らえ、これを斬って高祖(劉邦)に上聞した」としています。
2020-05-06 07:07:56これは、韓信が、鍾離昩を戦場か逃走中に捕らえて、処刑して劉邦に報告したものとしか読みようがないでしょう。
2020-05-05 23:36:27また、年表をご覧になれば分かる通り、韓信が捕らえられたのは翌年の12月であるため、(この時は10月が年始ですが)閏月である後9月を含めれば、4か月の期間があります。淮陰侯列伝の記述では、劉邦の陳への行幸と、韓信が鍾離昩を自殺に追い込んだ事件は余り日に差がないようにしか読めません。 pic.twitter.com/WMpWWy8f7B
2020-05-05 23:36:27実は『史記』は記述部分によって矛盾がある箇所がかなり見られます。これは、司馬遷は集めてきた史料や資料を大事にして、できるだけ原文そのままに記載したためであると言われています。そのために司馬遷は、「制作したのではなく、記述したのである」と述べています。
2020-05-05 23:36:28それなら、「淮陰侯列伝」と「秦楚之際月表」、どちらの方が信憑性は高いでしょうか? 結論から言えば、ほぼ間違いなく、「秦楚之際月表」です。
2020-05-05 23:36:29司馬遷は『史記』の序においてこう述べています。「本紀を整理し完成したのち、同じ時代にあって年代に相違があり、時日が必ずしも明確ではなかったので、十表(秦楚之際月表がこの一つ)を作った」と。
2020-05-05 23:36:30すなわち、史記の根幹となる重要な本紀をつくる時に、資料により相違していた年月について、司馬遷なりに正しいと思われる方に、整理したものが十表という年表なのです。
2020-05-05 23:36:30なお、『史記』の年表については、エドゥアール・シャヴァンヌ (著)、岩村 忍 (翻訳) 『司馬遷と史記』では、このような説明が行われています。(以下、176頁から引用)
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