【英独建艦競争 ドイツ海軍の野望と蹉跌】

HIROKI HONJOさんのWW1までの英独建艦競争(あるいはヴィリーのやらかし)に関する解説。タイトルはツリーからそのまま流用しました。 とりあえず、ビスマルクはあの世でヴィリーをタコ殴りしても許される(;´Д`)
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HIROKI HONJO @sdkfz01

【英独建艦競争 ドイツ海軍の野望と蹉跌】 20世紀初頭、英独両国は国力を傾けて大艦隊の建造に邁進しました。1914年の時点で両国が保有する弩級艦・超弩級艦は合計56隻に達し、さらに13隻が建造中でした。 デッドヒートを繰り広げた両国ですが、WW1直前に英国の優位は決定的となります。 pic.twitter.com/0oCayzrsF1

2020-05-08 15:46:45
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いわば、戦う前からドイツ艦隊の敗北は宿命づけられていたのでした。工業力で勝る新興国ドイツが凋落の兆しを見せ始めた英国に敗れたのは何故でしょうか? 歴史に残る一大建艦競争の諸相を素描しながら、考察します。 pic.twitter.com/2FJnC6iVo9

2020-05-08 15:47:32
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なお、本稿は以前に投稿した【明治期の日本海軍と英国兵器産業】の続編です。 pic.twitter.com/EpfETfCbfD

2020-05-08 15:47:58
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1890年代、前弩級戦艦の登場と共に各国は海軍を増強し始めます。当初は古くからの大国であるフランスとロシア、やがて新興の工業国ドイツとアメリカが艦隊の拡張と近代化に着手し、英国の海洋覇権を脅かしたのです。 (このあたりの経緯は前述の拙稿をご参照下さい) pic.twitter.com/Z2rtiE4qrR

2020-05-08 15:49:50
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これに対し、英国はパクス・ブリタニカの守護者たるローヤル・ネイヴィーの地位を死守すべく大規模な建艦に乗り出します。大英海軍が追求したのは「2国標準」(世界2位と3位の海軍の合計に等しい戦力を保持する)。 かくて英国の海軍費は1880年の1,050万ポンドから1904年の3,680万ポンドへと急伸。 pic.twitter.com/1aYijWiBdB

2020-05-08 15:50:30
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1904年の前弩級戦艦保有数は英53隻、仏29隻、露20隻、独18隻、米16隻であり、かろうじて2国標準は維持されていましたが、軍艦建造費においては米独の合計と拮抗しており、1908年には7割を切るまでになります。(英国754万ポンド、米独1,100万ポンド) 今や、英国の努力は限界に近づいていました。 pic.twitter.com/F8nwMJBGOO

2020-05-08 15:51:33
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一方、世界政策をかかげるドイツの海軍拡張は目覚ましく、1900年の艦隊法2次案では前弩級戦艦38隻の保有が定められます。(写真はドイツ艦隊) pic.twitter.com/buXIlYyBsX

2020-05-08 15:52:17
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その頃、かつて世界の工場と称された英国の工業生産力は、相対的な地位を大きく低下させ、米独の後塵を拝するに至ります。 1900年の鉄鋼生産量は英国の500万トンに対し、独630万トン米1,030万トン。 米独を向こうに回しての建艦競争は行き詰まっていたと言っても過言ではないでしょう。 pic.twitter.com/lo4qc6QZzQ

2020-05-08 15:53:00
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当然ながら財政上の負担も極めて大きく、ボーア戦争の戦費も加わって英国の政府債務は累積の一途を辿ります。 かくして英国は長年の「光栄ある孤立」を放棄し、極東では日本と同盟を締結、新大陸では米国の台頭を黙認。世界中に展開していた艦隊を整理し、本国海域へ戦力を集中しました。 pic.twitter.com/sIv6EKcNE1

2020-05-08 15:54:05
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今や英国海軍の戦略は世界規模の覇権の維持から、欧州での制海権確保に重点を移したのです。 そして主敵は増勢著しいドイツ海軍と定められ、従来の「2国標準」に替えて「対独2倍標準」が採用されました。 これは読んで字のごとく、ドイツの2倍の兵力を整備しようとするものです。 pic.twitter.com/3wK3T1Rkoe

2020-05-08 15:54:53
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フィッシャー提督が海軍トップの第一海軍卿に就任し、戦艦ドレッドノートが建造されるのは、まさにこうした情勢の只中でした。 しかし、ここで一旦時計の針を巻き戻し、19世紀末からのドイツ艦隊の拡張について概観しておきましょう。 pic.twitter.com/Ou4NjtAOuP

2020-05-08 15:55:38
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ヴィルヘルム2世は、皇帝即位を翌年に控えた1887年、英国のヴィクトリア女王即位50周年を記念する観艦式に招かれ、ローヤル・ネイヴィーの威容に大きな感銘を受けました。 「あれが本物の海軍だ」-うなされたように繰り返すヴィルヘルムは、1896年にドイツ語訳が出版されたアルフレッド・マハンの pic.twitter.com/fbk8qxi7CD

2020-05-08 15:56:29
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「海上権力史論」を貪るように読み、ドイツも本格的な外洋艦隊を持ち、海外植民地の獲得に乗り出すべきだと確信します。 皇帝即位(1888年)から間もなく、彼は海洋進出に消極的な宰相ビスマルクを罷免。 ドイツ初の前弩級戦艦ブランデンブルク級4隻が着工されたのは1890年でした。 pic.twitter.com/IqEKvuQ5uq

2020-05-08 15:57:16
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同艦級は1893年までに7隻の追加建造が決定されます。 また、ヴィルヘルムは通商破壊戦のための巡洋艦を艦隊整備の核とする海軍大臣ホルマンを更迭、後任にマハンの信奉者で外洋艦隊建設を志向するティルピッツを任命(1897年)。この新しい海軍大臣がぶち上げたのが前述の艦隊法2次案でした。 pic.twitter.com/emb69F6q1j

2020-05-08 15:58:04
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約50隻の前弩級戦艦を擁する英国海軍に対し、同38隻ドイツ艦隊が対峙する-この計画の理論的基盤は、ティルピッツの提唱する「危険原則」に他なりません。 これは、英国海軍と対等には戦えずとも、深刻な損失を与えうる戦力を保持し、抑止力とするもので、意外にも防衛的な思想でした。 pic.twitter.com/e1pDkKcJwj

2020-05-08 15:58:56
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ティルピッツは自らの構想を実現するには対英2/3の戦力の保持が必要と考えていました。これは結果的に英国の「対独2倍標準」と真っ向からぶつかり、両国の緊張は年を追って高まっていきます。 1906年、英国はドイツの建艦能力が自国と同等の水準に至ったと判断しました。 pic.twitter.com/vT7wnHqIm6

2020-05-08 15:59:51
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一方、国際情勢は英国にとって有利な方向へ動いていました。1904年にはドイツに対抗するため英仏協商が成立。1905年には日露戦争が終結し、極東の同盟国日本が辛勝を飾る一方で、ロシア艦隊はほぼ壊滅し、英国の仮想敵国はドイツ一国に絞られたのです。 pic.twitter.com/quyIp50k1n

2020-05-08 16:00:50
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1905年10月、第一海軍卿の地位に就いたフィッシャー提督(写真左)は、コンパクト(低コスト)で機動性に富み(短期間で世界中に展開できる)、かつ強力な(実戦力でドイツに倍する)海軍を建設すべく、ドラスティックな改革に乗り出します。 pic.twitter.com/7Ov7Bsqt5w

2020-05-08 16:01:49
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従来、フィッシャー改革は国力の相対的な低下に直面した英国が「グローバルな海洋覇権」を放棄し、「本国海域での優位性の確保」に後退したものと評価されてきました。しかし近年では高速艦を整備することで、遠隔海域へのスピーディな戦力投射を企図していたことが指摘されています。 pic.twitter.com/KVbemOiiKo

2020-05-08 16:02:49
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その構想の核となるのが世界初の巡洋戦艦インヴィンシブル級なのですが、これについては後述します。 pic.twitter.com/4uwpPBlx3M

2020-05-08 16:04:18
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フィッシャーが最初に取り組んだのはコストカットでした。1905年に成立した自由党のキャンベル・バナマン政権は財政再建のために歳出を削減。海軍費も例外ではなく、1904年の3,680万ポンドから1906年には3,140万ポンドに抑制されます。 pic.twitter.com/ruTtwaNVzm

2020-05-08 16:05:35
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更に、艦船建造の主力を担う民間造船所への発注は、1904年の777万ポンドから1908年の385万ポンドにまで激減します。 (英国民間造船所での軍艦建造の拡大については前編をご参照下さいpic.twitter.com/EpfETfCbfD )

2020-05-08 16:06:29
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このような状況の下でフィッシャーは、旧式艦を大量に処分します。「戦うには弱すぎ、逃げるには遅すぎる」と判断された90隻が売却され、さらに64隻が予備役に編入されたのです。 写真は1906年に売却された装甲艦シュパーブ。 pic.twitter.com/7ZOBMUePVw

2020-05-08 16:07:34
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HIROKI HONJO @sdkfz01

そして、海軍刷新の象徴として1906年に就役した戦艦ドレッドノートは、一般にイメージされるほど大きくもなければ高価でもないのですが、これはフィッシャー改革の重点が規模の拡大ではなく、質の向上(低コストかつ高パフォーマンス)あったことを示しています。 pic.twitter.com/VBlaxmCEo1

2020-05-08 16:08:44
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HIROKI HONJO @sdkfz01

実際、ドレッドノートと英国最後の前弩級戦艦ロードネルソン(画像)を比較すると、建造費は前者が173万ポンド後者が165万ポンド。常備排水量は18,120トン16,090トン。 「単艦で前弩級艦2隻を圧倒する」と称されたドレッドノートは、当時の英国海軍にとってうってつけだったことが分かります。 pic.twitter.com/4uY2JBypdb

2020-05-08 16:10:07
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