【ツェッペリン飛行船と世界初の民間航空事業/前編】

20世紀初頭に巨大な硬式飛行船を開発したことで知られるドイツのツェッペリン伯爵。 彼の望みは空に浮かぶ壮大な艦隊の建設でしたが、軍当局は硬式飛行船の採用に消極的だったため、民間航空事業へと転進します。 はじめのうちは困難の連続でしたが、ツェッペリン伯爵の飽くことを知らぬ情熱と優れたリーダーシップにより、1910年代前半、遂に飛行船による大都市間の航空旅客輸送を実現しました。 これは第一次大戦前に行われた唯一の、そして世界初の本格的民間航空事業だったのです。
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そこで伯爵は政府の援助を恃み、詳細な飛行船の設計プランを陸軍省(画像)に提出します。しかし官僚的な軍当局は煮え切らない態度のまま結論を先延ばしし続ける有様。1893年、痺れを切らしたツェッペリンは再び皇帝に陳情しますが、またも徒労に終わります。 pic.twitter.com/jAwAyJTVw5

2020-09-05 15:48:50
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こうなれば民間から出資を募るしかありません。伯爵は東奔西走し、理解者を一人、また一人と獲得。1898年、遂に総額80万マルクを確保したのです。この内、ツェッペリン個人の出資金は40万マルク(現在価値で約20億円!)に達しました。(画像は当時の20マルク金貨) pic.twitter.com/YWJUE6NLL2

2020-09-05 15:49:23
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次は優秀なエンジニアです。ツェッペリンはドイツ技術者協会(VDI)に参加し、専門家との間にコネクションを形成。1893年には「飛行船航空振興協会」を設立し、システマティックな人材のプールを図ります。その甲斐あって、1900年、独りの若き天才技術者が開発チームに加わりました。 pic.twitter.com/Y99dCX0cpD

2020-09-05 15:50:24
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彼の名はルートビッヒ・デュール。当時21歳のこの青年は、後にツェッペリンの下で118隻もの飛行船を設計し、名実ともにドイツの飛行船建造の第一人者に成長するでしょう。 伯爵は技術者ガチャで早くも★4SSRを引き当てたわけですね。 pic.twitter.com/TUbcG24rrh

2020-09-05 15:50:59
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ちなみに、デュールが参画する直前の1898年にツェッペリンが構想していた飛行船はこの画像に示されています。ちょっと細長すぎますよね。 1900年に完成した初の硬式飛行船は完成度の高いハル(船体形状)を備えているので、デュールは早速才能を発揮して設計を根本から改めたのかもしれません。 pic.twitter.com/UQ2yMQarT4

2020-09-05 15:52:14
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続いては、飛行船の建造に必要な構成品です。とりわけ重要なのは、軽くて丈夫な構造材と、小型で大出力の機関の二つでした。前者にはアルミニウムが採用されました。産業革命の進展を背景に量産が可能になったばかりの最新かつ最高品質の素材です。 (画像は全世界のアルミ生産量の推移) pic.twitter.com/eYq3SCZs3O

2020-09-05 15:52:48
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1898年、ツェッペリンはベルク社と契約、アルミニウムの確保に成功します。 機関については1889年に近代的なガソリンエンジンを開発したダイムラー社が提供を申し出ました。従来の蒸気機関とはケタ違いの出力を有するこの新式の内燃機関無くしては、伯爵の計画も夢想に終わったかもしれません。 pic.twitter.com/PGn2lDw3H7

2020-09-05 15:54:06
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最後は飛行船開発・建造のための拠点の確保です。伯爵は穏やかな湖の水面に浮きドック式の工場兼格納庫を設けようとしていました。その理由として、風向きに合わせて移動できるので飛行船の発着に有利であること、降下に際して陸地より船体を痛めるリスクが低いこと、などが挙げられます。 pic.twitter.com/Oc1vjpmRBm

2020-09-05 15:54:38
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彼の望みは、ヴェルテンブルク王が直々にボーデン湖畔のマンツェルに土地を下賜したことで叶えられました。かくして1898年、ツェッペリン伯爵は水上工場を建設すると、念願の飛行船の建造に着手したのです。 1900年7月、多くの困難の末、遂に初の硬式飛行船が完成。LZ1と命名されました。 pic.twitter.com/bBpTLLrkWC

2020-09-05 15:55:39
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LZ1のLはLuftschiff(飛行船)の頭文字、ZはZeppelin(ツェッペリン)のそれです。全長128m、体積11,300㎥。ダイムラー製15馬力エンジン2基を搭載したその船は、試験機でありながらも破格の巨躯を有していました。 まさに硬式飛行船の面目躍如です。 pic.twitter.com/ir7SyKcJGG

2020-09-05 15:56:05
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ツェッペリン伯爵はこのとき61歳。当時ドイツの平均寿命は40代後半でしたから、乳幼児の死亡率の高さを差し引いても、彼に残された時間は限られていたのです。 それだけに、ツェッペリンがLZ1に期待するところは、並大抵のものではなかったでしょう。(画像は1900年の写真) pic.twitter.com/yEfsKrFDZ2

2020-09-05 15:56:38
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初飛行は7月2日。事前に新聞で報道がなされていたため、ボーデン湖畔には多数の見物人が押しかけていました。水上にも観衆が鈴なりになった遊覧船が何隻も遊弋しています。折からの風が収まった午後7時30分、LZ1がハンガーから姿を現しました。 その巨体を目にした群衆からどよめきが生じます。 pic.twitter.com/QvX9zuGpA1

2020-09-05 15:58:16
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午後8時、LZ1は静かに浮上を始めました。高度400メートルで船体を水平に安定させ、ツェッペリン自ら舵を取ります。15分ほど湖の上空を飛び回ったところで深刻なトラブルが生じました。姿勢制御用の金属製バラストを移動させる装置が故障して船体が折れ曲がり、湖面へ不時着水を余儀なくされたのです。 pic.twitter.com/rajwSzNzjC

2020-09-05 15:58:50
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幸い5名の乗員に負傷者は出ませんでしたが、観衆は落胆して家路につきました。 歴史的な飛行であったにも拘らず、世間の反応は冷ややかでした。大新聞の一つ、フランクフルター・ツァイトゥング紙は翌日の記事で次のように断じます。動力飛行船には実用的な価値が全くないことが明らかになった、と。 pic.twitter.com/H7tTBlKp1V

2020-09-05 15:59:24
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人々はツェッペリンを「狂人伯爵」と呼んであざ嗤いました。それでも彼は諦めません。2か月をかけて修理と改良を施したのち、10月17日の2回目の飛行では1時間半の滞空時間を記録し、3日後の3回目の飛行では時速24.7㎞のスピードを出すことに成功。こうしてツェッペリンは自らの正しさを示しました。 pic.twitter.com/olP2VE7G5C

2020-09-05 16:00:49
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しかし、その功績は社会的には全く認められなかったのです。皇帝ヴィルヘルム2世からツェッペリンの実験について聞かれた飛行船部隊将校は、「あれは全く下らない代物」だと回答。ドイツ技術者協会のある会員は伯爵本人に向かって、巨大飛行船が空を飛ぶことは二度とない、と言い捨てました。 pic.twitter.com/cN2MpIv9ZN

2020-09-05 16:01:23
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資金は既に底をつき、国家の支援も無い以上、伯爵はLZ1を解体するしかありませんでした。 それでも細々と研究を続けるツェッペリンの窮状を救ったのはヴェルテンブルク王ヴィルヘルム2世でした。伯爵の熱意に惚れ込み、妃と共にLZ1の飛行を視察した国王は、1904年、12万マルクを提供したのです。 pic.twitter.com/B3IYLo4HyN

2020-09-05 16:02:43
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それでも2隻目の飛行船を建造するには足りません。この時、伯爵の妻イザベラが、持参金である故郷の所領を抵当に入れて不足額を補ったのです。これはツェッペリン家最後の財産に他なりません。彼女は夫と運命を共にする覚悟を示しました。「狂人伯爵」は決して孤独ではありませんでした。 pic.twitter.com/w3y6XEhA2L

2020-09-05 16:03:14
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え?仮にも王様なのに金額がショボいって?それは仕方ないのです。ヴェルテンブルクは小国ですし、ドイツ帝国政府は中央集権化のため領邦への締め付けを強化していました。どっかの王様みたいに時代錯誤な城つくって金を蕩尽されると困るからです。そんなわけで、王家もカツカツだったのです。 pic.twitter.com/na6xXdCa8k

2020-09-05 16:03:48
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資金の目途が立ったツェッペリンは、技師ルートビッヒ・デュールとともにLZ2の設計・建造に取り掛かります。このとき、開発チームには新しいメンバーが加わっていました。新聞社で働いていた、フーゴー・エッケナーです。 pic.twitter.com/U3lalCuf3a

2020-09-05 16:05:21
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哲学と経済学の学位を持つ、学者肌の人物でしたが、ツェッペリンのもとで有能な飛行船船長として、また同時に事業のマネジメントと宣伝活動のブレーンとして頭角を現してくることでしょう。

2020-09-05 16:05:42
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LZ2は、大きさこそ先代とほぼ同じでしたが、その失敗を踏まえて数々の改良が加えられていました。特に、最初のフライトでトラブルを引き起こした姿勢制御用の移動式バラストは廃止され、替わって船体の尾部にデュールが考案した昇降舵が取り付けられました。 pic.twitter.com/0wPImXMPig

2020-09-05 16:06:08
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また、機関は先代より遥かに強力なダイムラー社製の85馬力エンジン2基を搭載。この他、重量を増すことなく船体構造を強化する工夫もなされていました。 1905年11月、ツェッペリン伯爵以下開発陣の期待を一身に背負い、LZ2は完成。しかし、その運命はあまりにも惨めなものだったのです。 pic.twitter.com/UL2ZrUiFSz

2020-09-05 16:07:36
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気候が不安定な冬期に飛行テストを強行しようとしたところ、ハンガーから引き出す際に強風にあおられ、船体がハンガーの壁面に衝突、2か月の修理を余儀なくされます。なんと幸先の悪い出だしでしょうか。

2020-09-05 16:11:05
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1906年1月17日、ようやく初飛行を行うも、離陸後まもなく激しいピッチングに見舞われ、肝心の昇降舵が故障して船体が傾斜してしまいます。これが原因となって燃料供給に異常が生じ、エンジンまで停止するという事態に立ち至りました。

2020-09-05 16:11:23