やってみる前にあきらめる日本人と脳天気にもチャレンジする豪州人について……
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1 「あきらめ派」のことについてちょっと連ツイ。豪州で日本語を教えていると、豪州人の学生の脳天気な積極性にあっけにとられることがあります。それは、明らかに出来の悪い学生が意外な積極性を発揮することです。たとえば、出来ない学生でも、はい!と手が上がる。で、当ててみると、からっきし。
2011-07-16 18:06:562 よくこんなに出来ないのに手を上げるなあと思っていると、次の機会にまた手を上げる。そして、そんなのがその学生だけじゃないわけです。他のクラスでも、他のレベルでも、出来るのも出来ないのも、等しく手を上げて、日本語で話してみる機会を活用しようとします。
2011-07-16 18:06:573 そして、日本に見られるような、手を上げておいて出来ない学生に対しての周りの顰蹙は見られません。ひとり日本人の教師だけがあきれ返っている中、他の学生は、出来ない学生が頑張るのを辛抱強くまっています。で、終わった学生はふつうににこっと笑って着席。
2011-07-16 18:06:584 出来ないのに脳天気に手を上げてくる学生のことはしばらく謎でしたが、その謎は自分の子供を学校にやってみて解けました。豪州の学校ではクラス全体が出来ない学生をサポートする雰囲気をみんなで作っていました。
2011-07-16 18:06:595 豪州の小学校では英語の出来の悪いわが息子のようなのがみんなの前で何か発表するとき、言葉に詰まったら教師が適当に助けてくれて、それでなんとか発表を終える。するとみんなで拍手してくれる。手伝ってもらった子も手伝ってもらう必要がなかった子も等しく拍手をもらう。
2011-07-16 18:07:006 こういう環境で大きくなった子供は、大学生になると、出来ないくせに積極的に手を上げる学生になります。で、その大学生が社会に出ると、一人の力なんて小さすぎて社会を変えられないとは思わずに、一人でも積極的に社会を変えていこうという大人になります。
2011-07-16 18:07:047 「日本人の『あきらめ派』と『苦闘派』は10年で倍に」http://bit.ly/qABqZr という記事を読んで、あらためて日本に蔓延している学習性無力感のことを思いました。なぜかというと、それがオーストラリアの脳天気な人々にはあまり見られないからです。
2011-07-16 18:07:058 「学習性無力感(Learned Helplessness)」というのは、アメリカ人心理学者のマーチン・セリグマンという人がずっと研究対象にしてきたもので、先天的なものでなく、あとから学んで獲得した無力感というようなものです。
2011-07-16 18:07:079 なにか問題が起きたときに自分から解決しようとしたときに、そのたびに大きな力で妨げられるというようなことが続くと、問題があっても、それを自分で解決しようという意欲が減退してしまうというようなことがセリグマンの言う「学習性無力感」です。
2011-07-16 18:07:0810 無力感を学習してしまうと、動物は閉じ込められた檻から逃げることをすっかりあきらめてしまい、檻から逃げ出す工夫をするといった創造性を失ってしまいます。つまり、「あきらめ派」になってしまうわけです。
2011-07-16 18:07:0911 豪州人にその手の「あきらめ派」が少ないのは、やればたいてい褒めてもらえる、最悪でも何かが動くという「成功体験」を小さい時から積み重ねてきているからです。だから、なにか問題があると感じたら、一人でもどんどん出ていって話をする。
2011-07-16 18:07:1012 オーストラリア社会も、一人で出てきて話をする人には寛容だし、たいていは聞く耳を持ってくれる。もちろん、豪州だって社会制度の中で個人に出来ることは限られています。でも、出来なきゃ別の方法でやってみるということが気楽にできてしまうのが豪州人の脳天気。
2011-07-16 18:07:1313 豪州社会は上から下まで全部アマチュアだと悪口をいう人がいますが「出来ない人間」でもそれなりに道を見つけて生きていきやすい社会だとも言えます。そんな人達が本当に失敗したときのセーフティーネットも充実しています。…そんな社会で完璧なサービスを求めると欲求不満がたまるわけですが。
2011-07-16 18:07:14