安倍晴明と空也上人・六波羅蜜寺

安倍晴明と空也上人は、同年代の人物で、知り合いだった可能性も! 晴明さんと空也さんが生きた平安中期10世紀の魅力と、空也さんゆかりのお寺・六波羅蜜寺の至宝をご紹介します!
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リンク Wikipedia 西国三十三所 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往
リンク Wikipedia 六波羅 六波羅(ろくはら)は、京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。 天暦5年(951年)空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになったという。 この地は洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口にあたる事から、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた。 院政期には平正盛が一族のために供養堂を建立し、その子忠盛が「六波羅館」を置き、ここを武家(軍事貴族)の拠点とす 2
リンク Wikipedia 六波羅館 六波羅館(ろくはらやかた)は、京都の東山山麓にかつて存在した邸宅群の総称である。はじめ伊勢平氏の居館として築かれ、伊勢平氏が滅亡した後には鎌倉幕府の六波羅探題が入居した。 この地に伊勢平氏が根拠地を築くきっかけとなったのは、平正盛建立の阿弥陀堂である(現在の常光院)。 六波羅館と呼ばれる邸宅群の範囲は時代により異なるが、伊勢平氏が繁栄を謳歌した最盛期には、北側が平安京の五条大路を東に延長した通り(現在の松原通)、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。南北はおよそ5
リンク Wikipedia 六波羅探題 六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。 承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった。また、幕府側は 8 users 44
和こよみ*旧暦たん/賀茂こよみ⛩️日本文化史V @yamatokoyomi

小さな境内に不釣り合いな、南北朝時代築の立派な本堂(重文)が建つ…西国三十三観音霊場、六波羅蜜寺! こちらも明治時代に境内をごっそり接収されて小さくなっちゃいましたが、元はこの地図の南半分が境内… 平家の邸宅が集まってたことと、鎌倉時代の六波羅探題でも知られる歴史の舞台です! pic.twitter.com/sHyIJ05oqE

2020-11-03 14:00:15
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まとめ 和こよみ・火山たん・教会暦たんのハロウィン京都道中 「和こよみ*旧暦たん」、「火山たん」、「教会暦たん†カレン・キルヒェ」の三人による、2020年10/31-11/1・ハロウィンの夜をまたいだ京都旅行日記です。 4799 pv 25
和こよみ*旧暦たん/賀茂こよみ⛩️日本文化史V @yamatokoyomi

空也さんって、なにげに安倍晴明さんと同時代の人物なのです! それどころか、知り合いだった可能性も大! まぁ、師匠の息子さん、兄弟子の弟さんが伝記を書いてるのですからね~! そんな繋がりがあったなんて…!o(*・_・*)oって感じですよね~

2020-11-24 20:31:09
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空也:903年~972年 安倍晴明:921年~1005年  陰陽道(天文道)安倍氏の祖 賀茂忠行:890年?~970年?  陰陽道(暦道賀茂氏の祖←ここ重要! 慶滋保胤:933年?~1002年  賀茂忠行の息子・儒学者

2020-11-24 20:31:28
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(参考)賀茂保憲(やすのり):917年~977年  忠行の息子・安倍晴明の兄弟子 賀茂光栄(みつよし):939年~1015年  保憲の息子・暦道を継承←ここ重要!

2020-11-24 20:31:47
リンク Wikipedia 賀茂保憲 賀茂 保憲(かも の やすのり)は、平安時代中期の貴族・陰陽家。丹波権介・賀茂忠行の長男。安倍晴明の師とも、また彼の兄弟子とも言われる。官位は従四位上・主計頭。 父・忠行と同じく陰陽道の達人で、当時の陰陽道の模範とされるほどの評価を得ていた。また暦道も究めて、著書『暦林』10巻、及び『保憲抄』(いずれも散逸)を記している。 天慶4年(941年)7月17日に暦生ながら造暦宣旨を蒙って以降、暦博士・天文博士・陰陽頭・穀倉院別当・主計頭を歴任し、天延2年(974年)には従四位上に叙せられる。当時の陰陽家のなかに 2 users 3
リンク Wikipedia 賀茂光栄 賀茂 光栄(かも の みつよし)は、平安時代中期の貴族・陰陽家。丹波権介・賀茂忠行の孫で、陰陽頭・賀茂保憲の長男。官位は従四位上・右京権大夫。 暦博士・天文博士・大炊頭・主計頭などを歴任、一説には陰陽允を歴任したというが可能性は低い。一条朝初頭の長徳4年(998年)大炊権頭から大炊頭に昇任されるが、職務に堪えられるかどうかはわからないが、一道(陰陽道)の長であることを以て任ぜられたという。長保2年(1000年)弟の前内蔵允・賀茂光国に暦道を習伝させるよう命ぜられている。 祖父・父に同じく抜群の腕を持つ陰陽
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他にも同じ時代の人物としては、平将門源頼光、そして一説には『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなったとも云われる源高明なんかもいます。 そして、例のあのお話のモデル、倒壊寸前の羅城門が建ってたのも空也さんの時代…

2020-11-24 20:32:02
リンク Wikipedia 光源氏 光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。 なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称である。 架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。モデルには有力候補で生い立ちや境遇が似ている嵯峨源氏の源融説の他に、醍醐源氏、敦慶親王、藤原道長、藤原伊周、 4 users 12
リンク Wikipedia 源氏物語 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き、仲間内で批評し合うなど
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★安倍晴明・空也と同時代の有名人物・できごと★ 平将門:903年?~940年  承平天慶の乱で誅死 藤原秀郷:891年?~958年  将門討伐の大将、巨大ムカデ退治伝説 源頼光(らいこう):948年~1021年  酒呑童子(しゅてんどうじ)退治伝説など

2020-11-24 20:34:04
リンク Wikipedia 平将門 平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる
リンク Wikipedia 藤原秀郷 藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。藤原北家魚名流を通説とするが、下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒したという説もある(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓 1
リンク Wikipedia 源頼光 源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。 生誕地は不明だが本拠地の多田であるか、父の満仲が天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同
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慈恵大師良源:912年~985年  通称:元三(がんざん)大師、比叡山中興の祖 (参考)藤原道長:966年~1028年  「この世をば我が世とぞ思ふ…」何とやら 源高明:914年~983年  『源氏物語』光源氏のモデルとも

2020-11-24 20:34:52
リンク Wikipedia 良源 良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵(じえ)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。 良源は延喜12年(912年)、近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)に、地元の豪族・木津(こづ)氏の子として生まれた。幼名は観音丸(日吉丸とも
リンク Wikipedia 藤原道長 藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子 1 user 137
リンク Wikipedia 源高明 源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代中期の公卿。醍醐天皇の第十皇子。官位は正二位・左大臣。 一世源氏の尊貴な身分に加えて学問に優れ朝儀にも通じており、また実力者藤原師輔やその娘の中宮・安子の後援も得て、朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 延喜20年(920年)7歳で源朝臣姓を与えられ臣籍降下する。朱雀朝初頭の延長8年(930年)无位から従四位上に直叙されると、承平2年(932年)正四位 1 user 8
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さて、元旦三日が命日なので元三(がんざん)大師と呼ばれる、平安中期の天台座主、慈恵大師良源さん。gdgdだった比叡山を立て直し、源氏物語の「横川の僧頭」のモデルといわれる源信僧頭の師匠という歴史的名僧です。弘法大師より影薄いけど、民間信仰ではなぜかコアな人気のある方…

2014-07-23 22:09:17
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なのですが…おみくじの元祖とも言われたり、いつしか厄除の神様的な信仰が… なにこの異様な偉容のお札…!萌ゆるっ! リアル彫像はもちろん人外じゃありませんshigahochi.co.jp/image/cf1a1e95… どうしてこうなったΣ(*・_・*) pic.twitter.com/svrKOhgK0w

2014-07-23 22:22:04
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