マルクス主義フェミニズム及びラディカル・フェミニズム的立場からの表現の自由に関する歴史的批判的考察

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Karl @no_child_porn

反戦ビラまき逮捕事件を手がかりに、表現の自由に関する考察を行います。

2011-07-22 19:15:03
Karl @no_child_porn

反戦ビラまき逮捕事件では、政府を批判するビラをまいた人が不当逮捕されました。この事件を当時の進歩派の新聞は「表現の自由に対する弾圧」だと報道しました。このような報道はこの事件の本質を伝えるものでしょうか?

2011-07-22 19:15:20
Karl @no_child_porn

そこで侵害されたのは「表現の自由」という抽象的権利ではなく、もっと実体的な権利が侵害されたのではでしょうか?

2011-07-22 19:15:38
Karl @no_child_porn

権力のない人々が、権力を持っている政権を批判する行為を弾圧することは、権力をいっそう不平等なものにし、その権力を無制限のものにし、それゆえ、場合によっては国民の生存権さえ脅かすものです。

2011-07-22 19:15:43
Karl @no_child_porn

そういう権利が侵害されたにもかかわらず、それを安直に「表現の自由が侵害された」と表現してしまっているのです。

2011-07-22 19:15:49
Karl @no_child_porn

そもそも「表現の自由」というのは、何を表現するのかという条件なしに抽象的、一般的に権利概念として確立しうるものなのでしょうか? たとえば、人は「行為の自由」という言い方をするでしょうか?

2011-07-22 19:15:54
Karl @no_child_porn

ほとんどの法律は常に人の行動を何らかの形で制約するものですが、そのときに、「この法律は私の行為の自由を侵害するものだ」と主張する人がいるでしょうか? たぶんいません。なぜでしょうか?

2011-07-22 19:15:59
Karl @no_child_porn

それは「何を行為するのか」「どういう行為をするのか」ということと無関係に「行為の自由」というような抽象的な議論をする人はいません。同じことは実は「表現の自由」についても言えます。

2011-07-22 19:16:04
Karl @no_child_porn

何をどのように表現するのかと無関係に、先天的に「表現の自由」なる権利があらかじめあって、したがってそれを守らなければならないと問題を立てるのはナンセンスです。

2011-07-22 19:16:19
Karl @no_child_porn

「権利」の中には、しっかりと大地に根ざしている柱のような権利と、すなわち人が人として尊厳を持って生きているのに必要な権利と、そのような根ざしはなく、まるでふろしきのように、柱の上にばさっと広げてかぶせてあるような「権利」があります。

2011-07-22 19:16:25
Karl @no_child_porn

ここでは、前者を「柱」型の権利と呼び、後者を「ふろしき型」の権利と呼びます。柱型の権利の中でとくに重要なのは、生存権、人格権、平等権、という3つの本源的人権です。

2011-07-22 19:16:32
Karl @no_child_porn

この3本の柱の上に、ばさっとふろしきをかぶせるようにかけてあるのが、たとえば表現の自由という権利です。このふろしきには、柱と重なっている部分もあれば、その下には何もそれを支える本源的権利がないような部分もあります。

2011-07-22 19:16:58
Karl @no_child_porn

先の、政府を批判するビラをまく権利は、平等権、生存権、人格権という権利と重なっており、したがって、それを侵害することは、「表現の自由」というふろしきを傷つけているだけでなく、柱を傷つけているのであり、後者こそ真の問題だったのです。

2011-07-22 19:17:03
Karl @no_child_porn

ではなぜ、「ふろしき型の権利」でしかない「表現の自由」概念がこれほど流布するに至ったのでしょうか? それは一定の歴史的経緯から来ています。

2011-07-22 19:17:08
Karl @no_child_porn

もともと、この権利概念が成立するようになった18世紀や19世紀においては、政府は一握りの支配階層の利益のみを代弁する権力機関でしかありませんでした。

2011-07-22 19:17:14
Karl @no_child_porn

したがってそれが何らかの言論統制を行なう場合にはつねに、それは圧倒的な権力を持つ者の利益のために、権力を持たない者、貧しい者、抑圧された者の言論・出版を抑圧するためになされました。

2011-07-22 19:17:19
Karl @no_child_porn

そうした状況のもとで、権力を持たない者の表現の自由を守るためには、最初から「権力を持つ者が権力を持たない者をいっそう抑圧し差別するような内容の表現は許されないが、その逆(すなわち非権力者が権力者による差別や抑圧を批判する自由)は許される」という論理を立てることはできませんでした。

2011-07-22 19:17:31
Karl @no_child_porn

それゆえ、「誰の表現であっても、どのような内容の表現であっても自由でなければならない」という抽象的論理を立てざるをえませんでした。当時にあっては、このような中立的・抽象的アプローチは、もっぱら政府が支配階級の利益のためにのみ言論に介入していた時代においては進歩的でした。

2011-07-22 19:17:38
Karl @no_child_porn

しかしながら、20世紀に入り、国家が単純に一部の支配階級の利益のみを代表するのではなく、きわめて制約されているとはいえ、すべての人々の基本的人権を一定保護する役割を果たし始めたました(近代国家から現代国家への転換)。

2011-07-22 19:17:44
Karl @no_child_porn

この時、本来であれば、このような抽象的な「表現の自由」論から人権的な「表現の自由」論へと転換するべきだったのです。

2011-07-22 19:17:53
Karl @no_child_porn

しかし、実際には19世紀的な発想が続くことになったのです。市民社会の中の権力をもつ者たち(ポルノに関してはジェンダーとしての男性)は、国家によって自分たちの表現の自由が部分的にでも制約されることに反発し、抽象的「表現の自由」論を持ち出し続けているのです。

2011-07-22 19:18:00
Karl @no_child_porn

一連のつぶやきを行うにあたっては、駒澤大学で教鞭をとる森田成也氏の論考に多くを得ています。同氏は学問的研究のみならず、「ポルノ被害と性暴力を考える会」「ポルノ・買春問題研究会」等の市民活動を通じてポルノ撲滅のために尽力されています。

2011-07-27 10:10:02
Karl @no_child_porn

同氏に深く感謝の意を示すとともに、今後の学問的・市民的活動のさらなる発展に期待致します。

2011-07-27 10:10:08