先史時代アメリカ(2021年2月13日更新)
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紀元1000年頃、スカンディナビアのノース(Norse)族がアメリカ北東部端、現在のニューファンドランドにあるランス・オ・メドー(L'anse aux Meadows)近郊に到達しました。ノブドウが豊かな場所なのでヴィンランド(Vinland)とも言います。ですが、結局衰退して忘れ去られました。この話は有名ですね。
2021-02-13 10:16:21しかし、ヨーロッパの外部膨張と言えばやはり十字軍でしょう。政治的には失敗ですが、アジアの品物を渇望する契機になりました。絹、薬、香辛料、生地、砂糖などです。ヨーロッパではこれらが法外な価格で売られていたことは言うまでもないでしょう。
2021-02-13 10:20:06アジア内陸ルートにしろインド洋・ペルシャ湾・紅海の海上ルートにしろ、距離はありますしムスリムのブローカーに次々と税をかけられもしました。ヨーロッパに着く頃には買い手がほとんどつかないし利益も出ない超高額商品です。ヨーロッパ人が新規ルートの開拓を目指したのは当然でした。
2021-02-13 10:23:4913世紀末にはマルコ・ポーロの中国訪問記もヨーロッパのアジア熱を高めました。彼が本当に中国を訪れたのか最近は疑問視されてますが。 しかし、どう新規ルートを開発するのか?従来、西アフリカ沿岸ルートは嫌がられていました。北風と南向きの海流のために帰れなくなると恐れられていたからです。
2021-02-13 10:28:43事態が変わったのは1450年でした。ポルトガルの船乗りがキャラベル船を発明し、遠洋航海が可能になりました。また、アフリカ沿岸から北西のアゾレス諸島に向かえば、西風に乗ってヨーロッパに帰られることも発見したのです。こうしてヨーロッパ人はサハラ砂漠以南アフリカにも進出可能になりました。
2021-02-13 10:30:59ちなみに、ヨーロッパへの金供給の7割弱はアフリカからだったと言われています。ラバに乗ってサハラ砂漠を越える交易ルートは世界史履修者なら聞いたことがあるかもしれませんね。この行商人達から黄金のマリ王国の噂が伝わっていた可能性もあります。
2021-02-13 10:34:34さて、ポルトガル人は西アフリカ海岸に交易場を建て金と奴隷を買おうとしました。数百年前からムスリム商人とアフリカ人は奴隷を取引していました。遠くからの捕虜に高値をつけ、奴隷集団を異なる諸部族で構成したことが知られます。奴隷制は最初からアフリカ地域文化と部族意識を破壊していたのです。
2021-02-13 10:37:30ポルトガル人もこの奴隷制に参入したわけです。彼らはアフリカ人奴隷をアフリカ近海のマデイラ諸島、カナリア諸島、サオトーメ島、プリンシペ島に建てた彼らの(後にスペイン人の)砂糖プランテーションで働かせました。15世紀後半、約4万人の奴隷がこれらの島々に連れられたと推計されています。
2021-02-13 10:39:33これが大規模商品作物栽培と巨大な奴隷労働搾取を基礎とする「プランテーション制」の起源と考えられています。プランテーションはアメリカ南部奴隷制でもキーワードになってきますが、実は15世紀後半のポルトガルが最も早いわけですね。スペインよりも先だったのです。
2021-02-13 10:42:11ポルトガルの航海探検は続き、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の希望峰(彼は嵐の岬と命名)に到達しました。1497年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達し、宝石と香辛料をヨーロッパに持ち帰ったのでした。このように、コロンブス以前から15世紀後半は重要な転換期だったのです。
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