万里の長城に組み込まれた要塞「董卓塁」とは何か?地図から浮かび上がる黄巾の乱の攻防戦と司令官董卓の戦いー董卓は現地の民衆(反黄巾側)に慕われていた?—

南北朝時代の史書に出てくる「董卓塁」「董卓祠」の地理的位置から解き明かす、三国志の暴君・董卓についてのもうひとつの姿について。『水経注』及びその図(明代の復元)の「董卓塁」と、正史『北斉書』の「董卓祠」は、何を物語るのか?後漢末の交通路と黄巾の乱攻防戦について
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

この地図は、黒字で書かれてるのが三国時代の少し後の南北朝時代の地名・地形で、赤字で書かれてるのは明代か何かだと思いますが後世の地名・地形です。見ると一目瞭然なんですけど、後世の万里の長城が董卓塁まで延伸してきてるので、これが凄く面白い。長い中国史に短い三国志は影響を与えてました。

2021-04-29 23:20:14
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@bunagaruru こちらの wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html… 早稲田大学図書館の古典籍データベースの中に『水経注図』がありまして、見れました。とりあえず、画像の山の中から臧洪の東武陽を探してくるのに、1時間以上かかりましたが、そしたら色々書いてあるので(^^;

2016-02-02 23:30:23
巫俊(ふしゅん) @fushunia

中国史研究に欠かせない基本ツール『中国歴史地図集』が見れるサイトです。目次を開いていくと、各時代の各州単位の地図を見ることができます。とても便利です。 guoxue123.com/other/map/zgma…

2021-04-29 23:50:32
巫俊(ふしゅん) @fushunia

秦代の巨鹿郡は大きな郡でしたが、漢代になると分割されて、通常サイズの鉅鹿郡になったようです。

2016-07-19 14:01:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 始皇帝が死んだとされる「沙丘」や「柏人」はこの近くです。巨鹿県は、郡の南端にありまして、戦国時代に都市が発達した三晋地域に一番近いところから都市が発達した結果、南端に大きな城(巨鹿県)がつくられたようです。

2016-07-19 14:04:42
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 光栄の三国志だと、このあたりには、西南から東北にかけて、「業β」「平原」「南皮」の3都市だけがマッピングされていましたが、平原は後漢時代まで青州に属していた都市ですし、かなり東に偏っていますね。

2016-07-19 14:08:52
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 実際には、「業β」から現在の北京までは、「西に山が高く、東に平野が広がる」地形が連続して続いており、漢代にはそのあたりに綿密に集中して都市が存在していたようです。それら都市群をめぐる争いが、董卓らVS黄巾だったと。

2016-07-19 14:13:04
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia というようなことは、ゲームでは表現されていなかったので、張角の出身地の鉅鹿といってもピンと来ないし、その西寄り(山寄り)の常山は董卓が陣営があった場所らしいということも、あまり理解されていないのかもしれません。常山から西のヘイ州に向かう途中に「井陘口」があり、

2016-07-19 14:16:09
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 天下の険として有名な場所です。光栄の三国志シリーズでは、冀州とヘイ州の間に連絡線が無かったりするのですが、実際にはある訳です。

2016-07-19 14:21:46
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『博物志』には、東海に牛体の魚がいて、牛のような形状をしていると出てきます。ステラー海牛を連想してしまうけど、ジュゴンとかでしょうか?毛があるようですが。 東海有牛體魚,其形狀如牛,剝其皮懸之,潮水至則毛起,潮去則毛伏。

2021-01-24 22:10:21
巫俊(ふしゅん) @fushunia

常山に両頭(頭が2つある)のヘビがいて、兵法家の孫武がそのヘビをヒントにたとえ話をしたとか、まことしやかに書かれて、これが面白い。

2021-01-24 22:13:23
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『洛陽伽藍記』をチラっとみると、董卓の邸宅の跡地がその頃(北魏)まだ残っていて、南北に池があり、董卓がつくらせた池だとありました。今(北魏)も水があり、冬も夏も渇水しないとあります。

2016-07-19 00:47:07
flat face @PlanusFacies

苦手な騎馬民族に対し、ローマ帝国は前線の基地として都市を建設してパルティアやササン朝を追い詰めたけど、どうして同じ世界帝国である漢とかは匈奴などに似たような手を取れなかったのだろう?

2016-06-08 21:34:17
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@PlanusFacies 前漢は、元匈奴支配下の地域や隣接する地区(六郡と総称)に「六郡の良家」を配置し、植民に努めていたようです。都市を建設した(もしくはオアシス系都市民の居住区を接収した)ことがあったと考えられますね。六郡の良家の子息は乗馬弓射にすぐれ、董卓もその出身でした

2016-06-09 03:25:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

呂布と董卓は、ともに長城地帯(農牧接触エリア)の出身で、騎射の達人だったと『三国志』に書かれていたはずですから、騎馬民の胡人や羌胡に常に対抗、いつも対処していた中国の西北辺境社会の「対抗騎兵文化」(遊牧民とイコールではない)の一員だと見て良いと思います。

2016-01-13 00:46:53
護倭中郎将⛩董卓⛩すぐる @darql

@fushunia 董卓に関しては、後漢書列女伝で、皇甫規の妻に「君は羌胡の種」とか言われてしまっていますしね。馬騰や馬超のことも考えると、あの辺はもはや混血地帯で、華夏人と異民族との境界もあいまいになっていたのではないかと、私も思いますね。

2016-01-13 01:08:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@darql 「呂布は異民族」だと決めてかかって、人種論を展開するのはいかがわしい話ですが、史料的制約を受けて「呂布と異民族、何も関係ないんじゃ?」という方向に行きそうになっていたのも、ちょっぴり気になっていました。皇甫規の妻は儒教の鉄人みたいな女性で、董卓悔しかったでしょうね

2016-01-13 01:16:04
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@den_buo 呂布が捕縛されたときに、劉備が曹操に「丁建陽と董太師に仕えたことを忘れたのですか?」と言っているので、てっきり演義で設定されてるように呂布は丁原の義子だと思っていたのですが、さいしょにリンクした「北京青年報」に、正史に義子記述があるのは董卓とだけとありました。

2016-01-13 01:25:51
巫俊(ふしゅん) @fushunia

cathay.ce.cn/person/201006/… 「北京青年報」を引用しているサイト(中国語)によると、董卓と呂布の義父子関係は、三国時期にあっては孤立した例で、董卓が西方の羌胡と密接な交際をしていたことが関係しているとありました。

2016-01-12 12:22:49
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@sweets_street @japanchinaGEO cathay.ce.cn/person/201006/… 「北京青年報」に“義父子”現象与“胡人”有関とあり、非相続型の義父子は三国時期孤例で、胡人の習俗だとありました。あと『藝文類聚』に呂布北騎とあり北方の騎兵を率いていた記述も

2016-01-12 02:17:42
巫俊(ふしゅん) @fushunia

こういう関係の中に、董卓と呂布の「義父子」関係を位置付けることができるでしょうか。董卓と呂布の関係は破局して、終わってしまいましたが、胡人に関係するにせよ、関係しないにせよ、乱世において非血縁の主従関係の「普通ではない親密さ」が劉備などの人物の背中を押した気がします。

2016-01-12 13:50:50
巫俊(ふしゅん) @fushunia

史料的には、董卓が自分の将校たちには(名士に与えたような)高位を与えなかったという記述くらいしか、思い出せないんですけど、それは彼らが董卓一家の家奴だからで、董卓とは恩情で結ばれていても、六郡の良家(ぎりぎり士大夫?)の生まれの董卓とは身分が違い、董卓自身は名士を尊重したようです

2016-01-12 13:42:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

まとめると、正史の丁原と呂布は義理の父子では無かった。董卓と呂布の父子関係は、漢人としては異例であり、騎馬遊牧民に対抗してた「対抗騎馬文化」を持つ「辺境中国人」の武人の習慣だった。この文化は、三国志世界の上層階層の「名士たち」の儒教とは、相容れない。董卓・呂布を待ち受ける悲哀… twitter.com/fushunia/statu…

2020-10-11 04:30:46
巫俊(ふしゅん) @fushunia

董卓はどのような出自で、どうして司令官として出世していき、同時代の他の人たちとはどこが違ったのか?こうして編集作業を続けると、少し分かってきた気がします。

2021-04-30 05:22:43