万里の長城に組み込まれた要塞「董卓塁」とは何か?地図から浮かび上がる黄巾の乱の攻防戦と司令官董卓の戦いー董卓は現地の民衆(反黄巾側)に慕われていた?—

南北朝時代の史書に出てくる「董卓塁」「董卓祠」の地理的位置から解き明かす、三国志の暴君・董卓についてのもうひとつの姿について。『水経注』及びその図(明代の復元)の「董卓塁」と、正史『北斉書』の「董卓祠」は、何を物語るのか?後漢末の交通路と黄巾の乱攻防戦について
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia とにかく、董卓は、常山の西の守りの井陘に加えて、西南にも董卓塁を築いて、弱点を減らしたと見てよさそうですね。ともに山岳地帯です。

2016-07-19 02:23:42
巫俊(ふしゅん) @fushunia

董卓祠をつくつたのが、常山側の人間あのか、下曲陽側の人間なのかで解釈が違ってきますが、鉅鹿を中心に活動する黄巾は、周辺地域で略奪を繰り返しており、付近の住民は生存競争になっていたはずです。

2016-07-19 14:27:29
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 常山にいた後漢の皇族はすぐに逃げ出してしまったらしいので、一時的に黄巾に付いたように思われますが、後から黄巾に参加した人たちほど扱いは悪かったでしょうから、官軍が盛り返してくると、官軍(董卓)の側で闘う決意を固めたものと思われます。

2016-07-19 14:30:12
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 当然、官軍が総崩れになれば、官軍に参加した住民たちは、黄巾からの報復が予想されます。董卓は下曲陽で張角に敗戦したとありますが、董卓祠がつくられ、董卓が「地域の恩人」になっていたところを見ると、董卓の指示を守って黄巾への抵抗を継続し、後任の皇甫嵩を待ったのかも?

2016-07-19 14:34:34
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 鉅鹿郡の南東の端に「広宗」という県(都市)があり、張角の弟の張梁がここを守っていました。皇甫嵩は時期を待って攻勢にうつり、広宗の戦いで3万人を殺害、5万人を河川に追い込んで溺死させています。

2016-07-19 14:44:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 張梁を斬ったところ、張角はすでに病死しており、黄巾はかなり動揺していたようです。そこで、鉅鹿郡の西北の端にある「下曲陽」県(都市)が黄巾本国軍の最後の拠点となり、下曲陽の攻防戦が始まります。

2016-07-19 14:46:26
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia そうして、張角の弟の張宝が守る「下曲陽」を攻撃した皇甫嵩は、十余万人を殺害して、「京観」(屍体を重ねてつくる凱旋門)をつくります。張宝は斬られました。このような皇甫嵩の輝かしい功績の裏には、前任者の董卓の努力もあり、そこでこの地に「董卓祠」が作られたようです。

2016-07-19 14:51:00
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『水経注図』に出てくる赤い線の「長城」ラインは、明代長城のラインだと思うのですが、三国志で言う冀州西部の山(南北に山が連なる)にその長城の支線が走っていて、ちょうど「董卓塁」があった場所で長城が終点になっている。

2016-11-05 23:00:56
巫俊(ふしゅん) @fushunia

講談社現代新書の名著『万里の長城興亡三千年史』より、北斉長城と明代長城の地図を拡大コピーして比べて見ているのですが、「〇〇万分の一」の元地図のサイズが違うようで、同じ場所のはずなのに等高線の数も違うので困っています。董卓塁を再利用したのは北斉長城?それとも明代長城?もしくは両方?

2016-11-06 21:23:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@ookuranoharu @darql @Jominian 常山国には、董卓塁、董卓祠があったようでして、前者は北斉長城、明代長城に組み込まれたと考えられます。後者は南北朝時代に「何で、董卓に感謝する祠なんかあるんだ」とクレームが来て破壊されました。

2017-01-02 13:54:33
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 【董卓の影響】 黄巾との戦いを指揮したときに、董卓が作ったと考えられる「董卓塁」が南北朝時代の『水経注』に記されていて、のちに北斉長城に組み込まれ、更には、明代の万里の長城の一角に再利用されたらしい。

2017-03-25 22:32:15
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

董卓祠 - 雲子春秋 (id:chincho / @my_birthday0128) d.hatena.ne.jp/chincho/201201… 面白い話ですね。黄巾失敗しているから、董卓殺されて黒山とか、李傕関係の時にできたものじゃないっすかね?

2012-03-04 00:54:42
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

検索してくださいと言っているようなものですよ!笑 黄巾の乱のときに建てられたと推測していますが、相国になった時にその地の人たちの忖度によって(?)建てられたという可能性も #質問箱 #peing_my_birthday0128 peing.net/q/9b6eb7ad-796…

2017-12-13 23:07:05
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@my_birthday0128 ありがとうございます。相国になった時とも考えられるのですね。董卓塁については、「実は董卓とは関係が無い」なんてこともあったりしないかと思うと、やっぱり夜も寝れません(笑)

2017-12-13 23:14:08
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@fushunia 相国になった時期だと常山は黒山賊の支配下ですかね 実際、伝承だけで事実と異なるというのはしばしばありますよね

2017-12-13 23:16:15
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@my_birthday0128 あそこに董卓が塁を築く状況を考えると、「援軍の到来まで、山の中で耐える」「ヘイ州方面との交通を遮断する」とか、色々考えられますが、はっきりしないですよね。ただ、董卓祠とセットの伝承だと考えると、董卓が黄巾から地域を守ったことを讃える逸話になるのでしょうか。

2017-12-13 23:21:36
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@fushunia もしそうなら実は結構黄巾と真面目に戦っていたということなんでしょうかね

2017-12-13 23:22:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@my_birthday0128 伝承の方から想像すると、董卓が、宮城谷昌光の小説に出てくる楽毅(中山国遺臣として、井陘でゲリラ戦をしていた小説内設定)みたいに活躍していたことになるので、小説の主人公にするなら、この董卓かなと思いました。

2017-12-13 23:29:07
かがみん=ピカード提督【夕張単婚提督】 @kagaminenter

@fushunia 水経注……昔買ったものの読んで退屈になり、売ってしまいました……

2020-09-26 16:18:05
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

郭典,字君業,為鉅鹿太守。與中郎將董卓攻黃巾賊張寶於曲陽。典作圍塹,卓不肯,典獨於西當賊之沖,晝夜進攻,寶由是城守不敢出。時人為語曰:「郭君圍塹,董將不許。幾令狐貍,化為豺虎。賴我郭君,不畏強御;轉機之間,敵為窮虜。猗猗惠君,保完疆土。」

2013-01-25 05:09:33
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

郭典、字君業、鉅鹿太守たり。中郎将董卓と与に黄巾賊張宝を曲陽に攻む。典囲塹を作らんとするも、卓肯んぜず。典独り西に賊の衝に当たり、昼夜進攻す。宝是に由りて城守して敢えて出でず。

2013-01-25 05:36:56
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

郭典は字を君業といい鉅鹿太守だった。中郎将の董卓と黄巾賊の張宝を曲陽に攻めた。郭典は囲塹(城を囲む堀)を作ろうとしたが、董卓は認めなかった。郭典は独自に西進し黄巾賊の衝(交通の要所)を阻み、昼夜進攻した。張宝はそのため、城を守り、あえて出撃しようとはしなかった。

2013-01-25 06:07:45
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

当時の人々が語るには「郭君(郭典)が囲塹を作るのを、董将(董卓)が許さず。すんでのところで狐狸(のような賊軍)を化かして豺虎(のような猛獣)にしてしまうところであった。さいわいにも郭君が権勢をおそれず、好機がめぐって敵は虜となった。うるわしく仁愛ある君が国土を全うした。 」

2013-01-25 06:07:49

この「囲塹」(いざん)は、曲陽城を包囲する塹壕なので、西の山岳地帯の山の上に築かれた「董卓塁」とはまた別ですが、黄巾の乱においては、こうした土木工事を伴う攻防戦が考案されていた訳ですね。

「郭典は独自に西進し黄巾賊の衝(ちまた)(交通の要所)を阻み、昼夜進攻した。」が、山西省と河北省を結ぶ交通の要衝にあたる曲陽の西の山岳地帯のようにも読める(断定はできないかも)ので、「董卓塁」と呼ばれてるものは、実は「郭典塁」の可能性もあるんじゃ?とか思ってしまいます。

「董卓塁」の伝承過程にそうした事実の混乱があるのか?それともこの記述が董卓横死後の董卓評価を反映してて、董卓の功績が郭典のものにされたのか?と色々考えられますね。

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