科学は多数決では決まらない。では「科学」とは?(追記)
- kamiyusyagod
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@kamiyusyagod 色々な分類の考えがあるということで、どれが絶対に正しいというのではないけれども、私が今回のツイートで言っている「科学」とは、物事の確からしさを調べて行く手法という概念での話なので、無理に技術まで拡大するつもりは無いと言いたいのを理解して頂けますか?
2011-08-16 22:21:22@kumikokatase 理解できます。ただし僕は、それは狭義の科学であって広義の科学には多数決で解を求める場合があるので、「科学が多数決で決めていない」と言い切るのは語弊があるのではないでしょうか?
2011-08-16 22:27:41@kamiyusyagod 科学的な事実は、人の多数決で決まるようなものではないということです。ちょっと今忙しいので、議論のための議論の様なものにはお付き合いできません。
2011-08-16 22:29:04pukumaさんの時も思ったけど、工学は科学だと思うんだよな。科学ではなく技術だという区別は同意出来ない。理論の探究ではなく技術の探究だと言われればしっくりくるけど、両者とも科学ではなかろうか・・・?
2011-08-16 22:21:46「工学は科学か?」と聞かれれば間違いなく科学。ただ「工学者は科学者か?」と聞かれると、「どちかかと言えば技術者?」という印象が・・・科学者というと自然科学を扱う物理学者や化学者なんかをイメージしてしまうな。まあ、広義には工学者も間違いなく科学者なんだけど。
2011-08-16 16:34:17相手にとって話の要点ではない、いわばどうでもいい話題だから相当ウザそうで申し訳なかったけど、とても参考になった。他の人の意見も聞いてみたいでござる。
2011-08-17 01:36:16追加分
@kamiyusyagod あの、お疲れ様でした。最初に多数決ゆった者です。最初の時点で二人の主張が同じことをさしていて『科学』と『多数決』の語の問題だなと思ったので早々に謝り逃げかましました。すみませんでした。改めて見てみたら別の方が議論されていてトゥギャられててびっくり^^
2011-08-17 03:12:16@rikuegg 勝手ながらトゥギャらせてもらいました。自然科学でも多数決だったのは歴史的には正しいと思うので、僕は謝る必要は無いと感じました。理論に対して反証が証明されるまでは、賛成多数でそれが正しい(だろう)とするのが科学でしたので。ニュートン力学なんて典型と思います。
2011-08-17 07:18:43@rikuegg 彼(彼女?)は多数決を「個人の感情から来る判断」だと見ているように思えました。(科学が多数決というのは、その理論に反証を与えられない人が多数だから科学的に正しいとする。って事だと感じてます。)
2011-08-17 10:54:27@rikuegg 量子力学で未解決の観測問題なんかはどう捉えてるのか気になります。神はサイコロを振るのか振らないのか。(振る派が多数で、それに基づいている)。まあ、僕としては応用科学を技術とし、真理の探究のみを科学とする姿勢が一番気になったのですが・・・
2011-08-17 11:00:38@kamiyusyagod 同意見です^^ 言葉の定義と好みの問題ですから、話せば分かりあえますよね。立場上認められないとか、発言の経緯背景があるのだと思われます。神がサイコロを振るか、振らないか…くうっカッコイイですね!
2011-08-17 11:39:22工学では多数決で解を求める場合がある。例えばはやぶさに搭載したプロセッサは3重に冗長化されており、それぞれで演算して多数決で結果を決めてる(トリップルリダンダントや2 out of 3という)。多数決は故障という外乱を排除するための武器。
2011-08-17 17:11:55あとは、安全率という概念は人の思想が強く反映され、多数派が納得する形で定めている場合が多いと思う。ボルト選定で同じ応力がかかる場所でも用途によって安全率を変えている。
2011-08-17 17:17:54トゥギャりをちまちま見てたら、理学と工学の違いや科学の語源について色々あった。ちゃんと根元から語る大学教授の話が面白い。
2011-08-18 07:10:14この辺だろうか。こういう話に首を突っ込むと、学生時代に戻って勉強し直したい気持ちになる。 http://t.co/LMg7uj0 http://t.co/umMP19z
2011-08-18 07:22:45他の方の意見
@kumikokatase 投稿論文が受理されるかどうかはレフェリーの多数決制とは言えないだろうか?まあ、これは、科学的手順の妥当性の有無というよりは掲載価値の有無に重点があるわけだが。ただ、ある仮説がアカデミックに受け入れられるかどうかは多数決的な側面もあるような気がする。
2011-08-16 09:55:18.@Gould_7777 それについては、科学的な手続きによってきちんと証明された研究は自ずと説得力を持つと思います。科学的事実の証明には、その当時の技術水準もあり、判定が持ち越されているものも多くあります。こういう意見も出しました。 http://t.co/1DYttFs
2011-08-16 10:01:37@kumikokatase おっしゃられることはよくわかりますしその通りかと思います。ただ、たとえば、きちんと証明の「きちんと」、などに人間的な価値判断の入り込む余地がどの程度あるのかは、測定精度の問題などとは別の意味で「科学的普遍性」について考える上で重要である気がします。
2011-08-16 10:43:47.@Gould_7777 こういう意見も出しました。 http://t.co/ZV49CnZ 科学の手法というのは、人の思惑が入り込んで事実を歪めないように工夫した洗練された手法であり、それがとても重要なポイントです。その手法も日進月歩で改良が加えられています。
2011-08-16 10:50:59@Gould_7777 それと念のため。「科学」は、物事が正しいかそうでないかと白黒つけるのが目的ではなく、どの程度確からしいかということを調べて行く方法です。かなり確からしい事から、まずあり得ない事の間にも段階があり、判断できないものはグレーゾーンとしてそのままで保留します。
2011-08-16 11:01:53@kumikokatase 例えば、どの程度「グレーゾーン」であるかとの判断には、演繹的に割り切れるものではない以上、どうしても主観の入り込む余地があるのではないでしょうか。もちろん科学的な方法論を否定しているわけではなく、科学的真実を追求する上での人間の能力の限界の話。
2011-08-17 11:07:10@kumikokatase 科学の本質的に確率論的な面と人間の無知による不確かな面とは切り分けて考える必要があると思います。科学が「相対的に」他の学問に比べて主観がより入りにくいということとそれを目指して努力していることは認めますが、それは絶対的なものではないのでは?
2011-08-17 11:02:17