- southmtmonk
- 3543
- 0
- 1
- 0
@goyou だから、カルマ・チャクメは『極楽誓願』を書いて、これだけで充分。これ以上のものは必要ないと説かれたわけです。そして『極楽誓願』を確信する在家者たちは次々に極楽往生し、それは非難するものは悲惨な結果になっていると聞きます。ですから、誤解される文を指摘しただけのことです
2011-08-18 10:18:50@ooo157 僕は単純に極楽往生というのは空性の体験を伴うのだというような理解をしているんですが、カルマ・チャクメイの誓願文に書いてあることから外れてますか?
2011-08-18 10:24:40@goyou 「極楽往生というのは空性の体験を伴うのだ」とは、果ですか因ですか? 私はずっと因の話をしてます。念仏をする行者の話だから、因ですよね。この因で念仏者が必然的に「空性の体験を伴うのだ」という意味なら、根拠はなんでしょう?『極楽誓願』や『アミダ経』とは異なると思います
2011-08-18 10:38:22@ooo157 「確信を持って念仏を唱える」というのが因で、「空性の体験を伴う極楽往生」というのが果だと思っています。マハームドラーの文脈で言われる「空性と大楽とは不二である」というのが根拠です。カルマチャクメイの『極楽誓願』も顕教の形を借りて説いたマハームドラーですよね。
2011-08-18 10:44:43@goyou マハームドラーは、関係ないでしょう。『極楽誓願』に密教を持ち込むのは誤解でしょう。例えば、ゾクチェン・ケンポ・ソナム・チュードゥプ註では、密教では本尊を空性と観想しなければ、ならないが、この『極楽誓願』では実体と観想しても問題ないと註しています。
2011-08-18 11:03:07@ooo157 東チベットの超宗派運動の担い手が「『極楽誓願』では実体と観想しても問題ない」という解説していることは初めて知りました。それはきわめて凡夫に易しい態度ですね。
2011-08-18 11:34:45@goyou そうです。五逆なく真心の信さえあれば極楽が確約される本当に素晴らしい教えです。ゾクチェンと念仏の関係は、天台の本覚と念仏の関係に凄く似てますね。源信さんミパム・リンポチェにそっくり。部派的法相の論理学に引導渡してるし、一方『往生要集』のような素晴らしいもの書いてるし
2011-08-18 11:48:27@ooo157 カルマ・チャクメイの『極楽誓願』の観想部分にはグル・パドマサンバヴァが出てきますね。ゾクチェンやマハームドラーの行者さんが高度なポワを行う時にもよく読まれていますが、そういう余地を多分に残して書かれているところもあの誓願文の素晴らしさかと思います。
2011-08-18 11:55:53@goyou 前書きの「これより利益の大きいものはない、これより深い教えはない、私の教法の根本である」に続けて「これは顕教流だから、ルンを得なくても唱えられる」と書かれているでしょう。これに明解でしょう。
2011-08-18 11:58:45ちなみに極楽往生誓願文(デチェン・モンラム)というのはチベット仏教文学における一大ジャンルを形成していて、最近はそれだけを集めた二巻組の全集も出ていますね。
2011-08-18 10:28:48