- southmtmonk
- 8439
- 5
- 2
- 1
『往生要集』が描く臨終行儀においては、臨終を迎える者は極楽世界を頭の中に思い描くことに集中していなければならない。そのことを手助けするのが看護人の一番大事な仕事である。” 死と病と看護の社会史 http://t.co/c1Uf5lh5ww
2013-08-28 18:19:28”平安中・末期から鎌倉期にかけて、臨終正念を必死に願った往生願望者の間には病気になっては臨終正念が得がたいとして、健康なときにこそ臨終行儀を行なうべきだと考え、自殺の道をとる者がいた。”
2013-08-28 19:10:15入水したりなんだったり、手段は様々ですが、極楽往生を願っての自殺ってのは本当にあったことなんですよねぇ。
2013-08-28 19:11:01@bun_history 説話集とかには、往生のための自殺に成功したり失敗したり、自殺に見せかけた往生するする詐欺があったりとか、今の価値観だとそれで本当に極楽行けるの? ってのが多くありますね。
2013-08-28 19:14:59いまはほとんど意識されることがないけど、末期の一念(臨終正念)が来世を決めるキーポイントだというのは、インド以来の伝統的な考え方ですね。親鸞を読んでみて凄いと思ったのは、そこが外れてしまっていること。法然がどう考えてたのかは、不勉強でよく知らないのですが。
2013-08-28 19:24:19@neetbuddhist 法然は親鸞が心を寄せたような「信心を得た時に往生は定まる」式の表現と、「いつが臨終になるか分からないんだから常に念仏大事」的な表現が混在していまして、場所と立場によって使い分けてたというか、おおらかというか拘らないというか、そんな感じですね。
2013-08-28 19:44:21@neetbuddhist その法然の鷹揚な表現の1つの端を、きっちり突き詰めると親鸞、みたいな具合かなぁ、と自分は見ています。
2013-08-28 19:45:03@bun_history あまりちゃんと勉強してないのではっきりしたことは言えないんですが、法然はなんだかんだで仏教の基礎教理をきっちり踏まえて語ってる印象があるので、「臨終正念」へのこだわりは残ってたんじゃないかなあ、という気もします。念仏三昧行も、かなりやってたようですし。
2013-08-28 19:48:25「末期の一念(臨終正念)が来世を決めるキーポイント」という概念からの脱却というのは、日本浄土教の結構大きなポイントでしょうねぇ。「現在の日本において、末期の一念が重要視されない」という現実そのものが、影響の大きさを物語っている気がします。
2013-08-28 19:47:49親鸞も蓮如もこれは繰り返し繰り返し「信心を得た時、すなわち往生を得るんだ」と伝えてましたし、先徳のご苦労が忍ばれます。
2013-08-28 19:48:49逆に今は「臨終正念」という前提がまったくもって意識されていないからこそ「即得往生」という言葉に思想的な派生ができたりして、ああ思想というのはこうやって変化していくのかと興味深くもあり。
2013-08-28 19:51:46そもそも「御来迎」というのも、「死の瞬間に阿弥陀様が迎えに来てくださるから、末期の一念でミスってしまうことがない」という筋の話だろうしなあ。その「他力」の側面を徹底していくと、「臨終正念を達成するために努力する」ことに、意味がなくなっていくのはたしか。
2013-08-28 19:53:36@neetbuddhist その辺も、従来型の「末期の一念を違わないから来迎が得られる」ってのを、「信心があれば阿弥陀仏が末期の一念を向こうから定めてくれる、そのために来迎してくださるのだ」みたいな文脈に読み替えられた歴史があったり、色々ありますねー。
2013-08-28 20:10:41中国の南北朝時代なんか考えてもそうだけど、仏教というのはやはりものすごく感染力の強い思想だから、入ってきた当初は一民族をガチでハメてしまうことがあるんですね。
2013-08-28 20:03:59その「ガチハマり」の状態からどのように抜け出して、「俺流仏教」をつくっていくかというところに民族の性格が出てくるんで、そのあたりはどの地域の仏教を勉強していても、すごく面白いところですなー。
2013-08-28 20:05:06@neetbuddhist あ、『法然全集』ぱらぱらめくってたら、「十一箇条問答」に「臨終の一念」に関する問答がありました。
2013-08-28 19:56:18@neetbuddhist 「問曰。臨終の一念は、百年の業にすぐれたりと申すは、平生の念仏の中に、臨終の一念ほどの念仏を申いたし候ましく候やらん。
2013-08-28 19:59:46@neetbuddhist 答。三心具足の念仏はおなし事也。そのゆえは、観経にいはく、『具三心者必生彼国(三信を具する者は必ず彼の国に生ず)』といへり。ひつの文字のあるゆへに、臨終の一念とおなし事なり。」とか。
2013-08-28 20:00:42@neetbuddhist あとは当時の臨終行儀にある『五色の糸』を拒否したり、「又弟子等、仏の御手に五色の糸をつけてすすむれば、これをとり給はず、上人給はく、如此のことは是つねの人の儀式なり。我身においてはいまだかならずしもといひて、ついにこれをとり給はず。」
2013-08-28 20:02:56@neetbuddhist と、どうも臨終行儀とか臨終正念についてはやや否定的な方向だったようですが、確かに常行三昧もずいぶんやっていましたし、こだわるという意味ではそのあたりに課題を持ってこだわっていたのかもしれませんねぇ。
2013-08-28 20:05:07@bun_history なるほどなるほど。資料からのご教示、ありがとうございます。常行三昧を徹底的にやりつつ、「五色の糸」などの臨終行儀は拒否するというあたり、法然の場合、「臨終正念」を得ることと「信を確立すること」が、かなり重なってきているように思われるんですね。
2013-08-28 20:17:30@bun_history つまり、「臨終正念を得るために努力する」ことが、「信を確立するために(一定の)努力をする」ことに、読み替えられていく過程があるんじゃないかと。そのあたり、真宗的には「まだ自力が残ってる」ということになるのかもしれませんが。
2013-08-28 20:18:47