憲法メモ

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anonymity @babel0101

三段階審査論における保護範囲、制限、正当化の三つの論証において保護範囲論証と制限論証のいずれが先行するかという瑣末な問題について、ロースクール生は悩むのだろうか。

2011-08-26 22:17:14
anonymity @babel0101

保護範囲先行説はドイツ学説に忠実で松本先生、小山先生ばどが採用されている。他方、制限論証先行説は石川先生や駒村先生が採用している。なお、アメリカ型違憲審査論は保護範囲論証と制限論証を明確に区別せず、スコープの問題として一括処理する。

2011-08-26 22:21:24
anonymity @babel0101

保護範囲論証を先行させると、原則自由、例外制限という消極的自由の基本図式に沿う。また国家行為に先行して保護範囲を示すと、国家機関に行為規範を示すことができると言われる。他方で、石川先生などは刑法上の論証図式を憲法にも応用して国家行為の特定が保護範囲論に先立つという。

2011-08-26 22:26:24
anonymity @babel0101

しかし国家行為先行説は、保護範囲の特定なくして、どのように国家行為の特定をするのかという痛烈な批判がある。表現の自由の問題であると特定せず、どうやって表現の自由を制限する国家行為を特定するのか。そんなことは不可能であるとの批判だ。ー

2011-08-26 22:30:34
anonymity @babel0101

これに対して国家行為先行説は、保護範囲論証に先立つ規範違反の国家行為を特定することは可能であるという。保護範囲論証とは独立した規範違反の国家行為がありえ、それを論証の起点にするのが良いとの考えだ。しかし、これには再反論が考えられて、何らかの規範違反の国家行為があるとしても、

2011-08-26 22:33:24
anonymity @babel0101

それは憲法規範違反ではなく、憲法生成前の政治理念違反のようなものに過ぎなくなる。憲法に先立つ国家を想定し、国家行為を想定しなければならない。政治理念が憲法に分化し法的世界が開闢されて法の問題は生じる。しかし、国家行為先行派は、そのような法が開闢される前の原始的な政治理念の世界で

2011-08-26 22:37:04
anonymity @babel0101

国家行為を特定するのである。それでは、目的的規制と付随的規制の区別、直接規制と間接規制の区別など不可能ではないか。しかし、法開闢前の政治理念そのものに対して重大な侵害とみなせる国家行為を特定することが可能ならば、

2011-08-26 22:41:13
anonymity @babel0101

国家行為論証後、保護範囲論証に入り、つまり政治が法に分化した瞬間に違憲にするケースがありうる。国家行為先行説のメリットはこのように法生成の理論的帰趨に即応できる点にある。社会契約説のような政治理念によって憲法が結実したという法生成の経緯をそのまま論証にできるわけだ。

2011-08-26 22:44:05
anonymity @babel0101

ただ実際には国家行為と保護範囲は相互に視線を往復させながら決まっていく。そのためアメリカ流に基本的人権のスコープを一体に判断するのも不自然ではない。三段階審査はこのような悩みをもって論じられているということ、意外と知られていないよね。おしまい。

2011-08-26 22:48:28

8/27

anonymity @babel0101

さきほど木村草太先生のブログを読んでいたけど、面白い文体ですね。内容もためになること満載です。通説的な感覚とズレているところもあると感じるけれど。

2011-08-27 11:55:00
anonymity @babel0101

法令審査と適用審査の関係、平等権にLRA(必要性)の審査を用いないこと、処分違憲に対する違憲審査基準の適用などに言及してありました。

2011-08-27 11:57:09
anonymity @babel0101

処分審査にLRAが使えるのか? という質問に宍戸先生は猿払第一審判決を持ち出して理論的に使えるに決まっていると反論します。

2011-08-27 12:00:34
anonymity @babel0101

LRAとは同一の目的を達成するためのより制限的でない他の選びうる手段がある場合に違憲とするものですが、では行政処分は目的手段構造を有していないものも多く、それがゆえにLRAが適切ではない場合はありますか? と質問したらどうでしょうか。

2011-08-27 12:04:00

8/29

anonymity @babel0101

泉佐野市民会館事件を立体的に理解するためには、連綿と続く判例の波の中で、泉佐野市民会館を再文脈化する必要がある。

2011-08-29 09:52:11
anonymity @babel0101

泉佐野市民会館事件は集会の自由と公共の安全の衝突を調整する許可について、利益衡量論と明らかに差し迫った危険の基準による二段階衡量論を示したが、

2011-08-29 09:58:55
anonymity @babel0101

許可そのものの合憲性は皇居前外苑広場事件、利益衡量論は成田新法事件、明らかに差し迫った危険の基準は新潟公安条例事件、危険性判断に関する敵意ある聴衆の法理については上尾市民会館事件が参照されるべきである。

2011-08-29 09:59:03
anonymity @babel0101

泉佐野市民会館事件の射程はおそらく許可制度参照を通じた消極的な集会の自由制限の問題であり、集会の自由を越えて同判例の射程を拡げるのは、一つ大変だと思う。ただ泉佐野市民会館事件の厳格審査にも問題がないわけではない。

2011-08-29 10:37:50
anonymity @babel0101

違憲審査の視点には目的審査、危険性の程度の審査(目的審査に含めるのが支配的?)、手段の合理性の審査、手段の必要性の審査に分化できるが(目的、手段の合理性・必要性の三つの視点)、泉佐野市民会館事件は危険性の程度のみピックアップしており手段審査を実質していない。

2011-08-29 10:37:59
anonymity @babel0101

危険性の程度を審査するのは裁判官の恣意に流れやすく、実際アメリカの明白かつ現在の危険の法理も危険があるから制限オッケーという権利制限の理屈として使われた。泉佐野市民会館事件でも厳格審査を立てながら同じく権利制限的に働いている。

2011-08-29 10:41:31
anonymity @babel0101

裁判官の恣意を抑制する理屈として働いたのは、実際敵意ある聴衆の法理だったのかもしれない。しかし敵意ある聴衆の法理は外国(イギリスだっけ?)の理屈の接ぎ木に思えてならず、表現の自由の観点から再度位置付け直す作業が絶対に必要だよね。誰か私に原稿依頼しろ。以上

2011-08-29 10:47:10
anonymity @babel0101

レペタ訴訟(筆記行為の自由)とよど号事件(閲読の自由)は大切。佐藤幸治説以来、通説は情報の収集、提供、受領という情報流通の全過程を保障範囲に据え、これに応じて情報収集権、情報提供権、情報受領権という個別の権利に分化させる。

2011-08-29 21:39:47
anonymity @babel0101

しかしこの通説ばかり押さえて判例を押さえないのではダメ。通説は判例に対する批判学説としての意味を持っているので、実務を知らずして批判的視点だけ覚えているのでは話にならない。

2011-08-29 21:42:09