- noricksakurai
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だがジャップは編隊を崩さず、向かってくる。敵機は直上に達した。 ヒューーーッ! ドカーン! 我が輸送船の右舷側で紅蓮の炎が上がった。 ドカーン! 左舷側でも爆発した。大きな水柱が立ち昇り、その水が落ちてきて我々はびしょ濡れになった。 爆弾の落下音を聞いて我々は身を伏せていたが、
2020-02-04 07:47:44誰かが叫んだ。「みんな、中へ入れ!」 機は再度旋回している。やつらはもう一発落とすつもりだ。 いや違う。やつらはこっちには向かってこず、帰投していった。 このときの攻撃については以前ブログに書きました。 mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-74.…
2020-02-04 07:49:11その後「バンカ島北方に日本艦隊あり」との報を受け(誤報)、重巡エクセターと駆逐艦ジュピター、エンカウンターの3隻が船団を離れて先行、幻の日本艦隊に向かっていく。脚の速い2隻の輸送船デボンシャーとプランシャスも夜間のうちに増速して護衛のサトレジとともに、先にシンガポールを目指した。 pic.twitter.com/p4OwyqSjvK
2020-02-04 07:53:59残る輸送船はクラークの乗る低速のエンプレス・オブ・アジアとフレックス・ラーセル、シティー・オブ・カンタベリーの3隻、護衛は軽巡ダナイーとスループのヤラの2隻のみとなった。これで対空火力が大幅に低下してしまった。 pic.twitter.com/lGrbkjSfRa
2020-02-04 07:56:151942年2月5日11時、軽巡ダナイーを先頭に単従陣で進むBM12は、シンガポールを目前にして日本陸軍機の攻撃を受ける。この日艦船攻撃のため、クルアン飛行場に進出してきた飛行第九十戦隊第1中隊(99式双発軽爆撃機9機)。 pic.twitter.com/I87kGp8rmL
2020-02-05 12:51:42中隊指揮官は、戦死した前中隊長の後任として1月25日に着任した白川元春中尉(後の第8代統幕議長)。各機短延期信管の百キロ弾各4発搭載。低高度で投弾したため命中精度は上がったが、多数の被弾機を出した。 pic.twitter.com/R61CTCvfBx
2020-02-05 12:53:30戦果はエンプレス・オブ・アジアに爆弾3発以上命中して大火災の後、スルタン・ショール灯台付近で沈没、死者16名、フェリックス・ラーセルには爆弾3発命中小破(給水タンクへの爆弾命中で鎮火)、死者5名、シティー・オブ・カンタベリーも舵に損傷を受けた。 pic.twitter.com/o7FUuMkjFZ
2020-02-05 12:54:21エンプレス・オブ・アジアが搭載していた第125対戦車連隊の対戦車砲(おそらく2ポンド砲)、第18偵察大隊のマークIIインド型装輪装甲輸送車、ダルフォース(華僑義勇兵)を完全装備させるための大量の小銃弾薬等の搭載物資は、全て海没した。 pic.twitter.com/gWE8HyVlN6
2020-02-05 13:01:25以下、クラークの著書から。 海に飛び込んでから二時間が過ぎた。水はどんどん冷たくなってくる。歯はガチガチ鳴っていたが、幸いサメがいる兆候はなかった。爆弾がやつらを追い払ったんだろう。しばらくして、我々は内火艇に曳航された。灯台(写真右の海上灯台)のほうへ向かっている。 pic.twitter.com/9NioPDFBvF
2020-02-05 13:04:58やっと桟橋に上がることができ、安堵した。誰かが私にタバコを渡し、火をつけてくれた。これぞ待ちわびた、最高の一服だ。そして日の光が体を暖め、服も乾かしてくれた。 灯台には大勢、人がいた。コルベットの内火艇が彼らを乗せて、コルベットに運んでいる。 すぐに私の番がきた。 pic.twitter.com/tmAEXA7pJr
2020-02-05 13:06:00た。コルベットの内火艇が彼らを乗せて、コルベットに運んでいる。 すぐに私の番がきた。しばらくすると、私はコルベットの甲板に上っていた。そのコルベットは豪州海軍のヤラだ(その後、太平洋で勇敢に戦い、そして沈んだ)。 甲板に上がるとすぐに、乗員たちから手厚いもてなしを受けた。 pic.twitter.com/CYYUdaLwHD
2020-02-05 13:08:08温かいラム酒にコーヒー、タバコ、ジャムをのせたビスケットを出してくれたのだ。真新しい水兵服、白いズボン、シャツに靴も支給してくれた。負傷者は病室に運ばれ、応急処置を受けた。 収容をすませたヤラはシンガポールの港(ケッペル港)に向かった。
2020-02-05 13:10:08これで見納めだ、とエンプレス号の方に目をやった。船は無残な姿をさらしているがまだ浮いていた。 「見てみるかい?」乗員が双眼鏡を手渡した。「あそこにいまいましいジャッ○どもがいるんだ」 私には密林しか見えない。できるならこのままヤラに残りたい。 まもなくヤラは接岸し、我々は上陸した。 pic.twitter.com/9AG6QV5HGU
2020-02-05 13:12:57パレンバン石油積出船団
新しいまとめで1章立てましたのでそちらをご覧ください。
パレンバンからの石油積出船団
シンガポールから最後の脱出船団
2月14日にパレンバンからのタンカーがバタビアに到着したころ、2月12日にシンガポールから脱出した最後の(?)船団もバタビアに到着した。1万トン級の客船Empire Star、貨客船Gorgon、護衛のHMS Durban、TSS Kedahの4隻で、日本軍機の激しい攻撃により損傷しながらもたどり着いている。
2020-01-17 23:26:38Empire Starは英語版Wikiのページがあるのでどうぞ en.wikipedia.org/wiki/MV_Empire… Gorgonは1933年建造の貨客船で、爆弾3発が命中して火災が発生したが、バタビアにたどり着いた。 flotilla-australia.com/australind.htm
2020-01-17 23:47:42ゴルゴン(Gorgon)
2月12日にシンガポールから脱出した最後の(?)船団がバタビアに到着したが、これは1万トン級の客船Empire Star、貨客船Gorgon、護衛のHMS Durban、TSS Kedahの4隻で日本軍機の攻撃により損傷している。このうちGorgonは火災が発生し、火災の一つは弾薬庫に隣接していたが、大事にはならなかった。 pic.twitter.com/gv63iHVAWW
2020-02-16 21:18:56Gorgonへの3発目の命中弾は小麦粉の袋の間で不発で見つかり、乗船していた2名の軍人により海中に投棄された。 その後はニューギニア方面への輸送に従事していたが、1943年4月12日、ニューギニアへの輸送船団に参加中37機の日本軍機の攻撃を受け、Gorgonは数発の命中弾を受けて火災が発生した。
2020-02-16 21:27:16船団を護衛していたHMAS Kapundaの艇長は艦を燃えるGorgonに近づいて消防隊を送りこみ、長い戦いのあと鎮火に成功してGorgonを安全な港まで曳航した。Gorgonは戦争を生き抜き、戦後は1964年まで運行され1965年8月に香港で解体された。
2020-02-16 21:33:32HMAS Kapundaも戦争を生き抜き終戦後はクチンの捕虜収容所からの連合軍捕虜の移送を支援し、同地域の日本軍の公式降伏式では、独立混成第71旅団長山村兵衛少将はHMAS Kapunda船上で降伏文書に署名した。
2020-02-16 22:22:35HMAS Kapundaは1942年6月23日に竣工したオーストラリア海軍のBathurst級掃海艇の一隻でイギリス海軍流にコルベットと呼ばれた。Wikiの「日本の降伏」でカプンダとなっているのが本艦で、どれかの記事には駆逐艦となっていたが間違い。 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5…
2020-02-16 23:31:10