歴史系雑語り・天文8年 奥羽大名 大崎・葛西・南部の合同使節団とその背景

天文8年(1539年)に奥州の大崎氏・葛西氏・南部氏が合同で使節団を派遣していたのではないか、という話とその背景についてのオチが無い話です。話の重複は仕様です。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

大崎・葛西・南部の合同使節団……夢が広がる話だよね……って思ってる。

2020-12-23 23:59:04
帆船ハッカ @kotosakikotoko

大崎からは常直上人、葛西からは赤荻清定、南部からは恐らく南部彦三郎がメンバー。これが全く同時期に一斉に上洛していて、これ合同で出たんだろ、というのが説の骨子ね。

2022-07-15 01:00:11
帆船ハッカ @kotosakikotoko

奥州探題考--中世国家と陸奥国 掲載誌 日本歴史 / 日本歴史学会 編 (通号 623) 2000.04 p.1~17 ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300… 中世の権力と列島 koshi-s.jp/shinkan/1209_1…

2022-07-15 01:49:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天文8年に大崎・葛西・南部が合同使節団を出してたんでないか、という話は散々しているのだけれども、天文8年って微妙な年なのよね。なんとなれば、その3年前の天文5年、大崎氏では大きな内紛が発生していて、その鎮圧のために伊達氏が大崎、さらには葛西領にまで進軍しているのよね。で、この事件で

2022-02-24 22:39:51
帆船ハッカ @kotosakikotoko

大崎氏は伊達稙宗から養子小僧丸(大崎義宣)を押し込まれていて、葛西氏もこのタイミングで養子・牛猿丸(葛西晴胤)が入ったんでないか、と言われているのよね。じゃあもしこの養子入りが事実だった場合、この使節団はどのような意図をもって派遣されたのか、という点が当然浮かび上がってくる。

2022-02-24 22:39:51
帆船ハッカ @kotosakikotoko

伊達稙宗の婚姻政策、少なくとも葛西と大崎(息子達を入婿させた)に関してはかなり大きな反発を食らってて、それを押さえつけて推進したものだったのが見て取れるんだけど、これが葛西大崎両氏の外交にどんな影響を及ぼしたのかなぁ、とちょっと思ったり。

2018-02-12 00:11:22
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天文頃の大崎氏、古川状にあるように内紛と伊達の介入、天文11年には伊達洞の乱に否応なく巻き込まれと、伊達に押される中で自立を模索していた時期と言っていいと思うけど、天文8年の合同使節団もその文脈に置いて考えてみると面白いというか何か掘り出せないかなぁと思ってる。

2020-12-23 23:40:31
帆船ハッカ @kotosakikotoko

合同使節団だったのではないか、と指摘した黒嶋敏先生は、これを大崎義直が、当時幕府と疎遠であった伊達稙宗をけん制する為に派遣した、とする説を唱えている。ただこの時期伊達と大崎が表立って対立していたわけでもなく、個人的にそれが反伊達の行動ととるべきなのか、ってちょっと分からん。

2022-02-24 22:39:52
帆船ハッカ @kotosakikotoko

当該期の伊達稙宗の花押が細川尹賢の模倣であり、その尹賢の息子氏綱は天文7年に挙兵し、当時の管領細川晴元と対立している事、そこから、伊達稙宗が当時の幕府と疎遠であったこと、これに対抗する形で大崎義直が幕府に接近したんでないか、という話は、中央と地方の密接なリンクとして面白いよねぇ。

2022-02-24 22:49:40
帆船ハッカ @kotosakikotoko

大崎氏の意図が反伊達するなら、もう一つの視点として、葛西氏と南部氏はこの点どう考えてたのかって話になるよね。 この時葛西氏に伊達稙宗の息子である牛猿丸は入婿していたのか、でも話は変わる。この時期の葛西氏、当主不在だったと思しくて、誰が主体となって使節を派遣したのか分からないの。

2022-02-24 22:58:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

確実に言えるのは、天文10年7月において『葛西和与之儀』に際して牛猿丸が『環住これなく候』って状況に置かれていたのは伊達稙宗書状から間違いない。環住というからにはある時点で一度葛西領に入り、一度退去した状態かとも考えられるのだけれども、それ以前がどういう立場だったのかは分からない。

2021-06-15 00:09:26
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、8月頃には牛猿丸入婿に反対していた葛西家臣の末永氏が退去し、牛猿丸は葛西領に戻る事が出来たことが、これも別の伊達稙宗書状から分かっている。伊達氏子息の入婿に相当の抵抗があったのは間違いないと思う。

2021-06-15 00:11:59
帆船ハッカ @kotosakikotoko

派遣されたのが赤荻清定さんって人なんだけど、この人の立ち位置はよく分からん。天文の乱でどっちについたかなんてのも分からんし。 ちなみにこの赤荻清定さん、天文5年に東国・西国・秩父の百ヶ所霊場を回りきった人。外交案件で国外に出るたびに寄ったんだろうなぁ。

2022-02-24 23:15:11
帆船ハッカ @kotosakikotoko

赤荻清定が見たかもしれない風景(於 法雲寺) pic.twitter.com/sXWcrCqZpX

2020-08-12 09:20:31
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

とまれ、葛西氏に関しては(南部氏みたいに)偏諱貰いたいみたいな話ではないだろうし(晴胤への偏諱はこの10年後)献上品を贈った話はあるのだけれども、じゃあそれが何を目的としていたのか、ってなるとよう分からんのよなぁ。

2022-02-24 23:19:51
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、ちなみに7月15日は南部彦三郎晴政(当時は多分安政)が上洛してて、幕府では偏諱を貰えるかどうか、足利義晴が幕府の長老格・大館常興に下問し、大館常興さんが『南部は有力な者なので偏諱を授けると良いでしょう』と答申した日。南部“晴“政が誕生した日と言うてもいいかな。

2022-07-15 00:06:51
帆船ハッカ @kotosakikotoko

偏諱を貰えるかどうか→偏諱を与えるかどうか

2022-07-15 00:09:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部氏の上洛理由に関しては、偏諱貰いに行った、でいい気はするけど、じゃあ当時の大崎氏や葛西氏とどんな関係にあったの? ってなるとこれも分からんのよねぇ。 ちなみにこの上洛の1か月前に本拠・聖寿寺館が大炎上していて、上洛してる暇あるの? とか関連付けて考えられないか? とか色々ある。

2022-02-24 23:23:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ちな、天文8年は三戸南部氏の本城たる聖寿寺館がバーニングし、お隣八戸では当主の死去に伴い内紛が起きて根城が親族に占拠された年でもあります。城燃えた1か月後には一字拝領してんねんで晴政。

2020-12-23 23:53:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

戦国期の北奥と南奥は接点が少なくてその動向もさほど連動してないから分けて考えた方がいい、というのが持論なんだけれども、この三氏合同上洛なんかは明らかに伊達氏の動向に影響されててかつ北奥と南奥(と中奥)が連動してる事例なので、奥羽諸氏の関係性について考える際面白い事例だと思う。

2018-02-12 00:38:52
帆船ハッカ @kotosakikotoko

北奥と南奥があまり連動しているようには見えないのって、史料の制約はもちろんだけど、中奥の大名が軒並み滅んでるのが原因として間違いなくある。葛西大崎和賀阿曽沼稗貫高水寺斯波。

2018-02-12 00:45:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天文法華の乱の後から2~3年後の京都ってどれくらい復興していたんだろう。 南部安政(晴政)や大崎葛西の使節団が上洛したのが乱から3年後の天文8年だから、まだ復興途上だったのは間違いないわけで、それを京都の凋落しゆく姿と見たか、それとも再興の息吹きと見たのか、ちょっと興味ある。

2014-02-18 00:35:55