@nagasek 内的なモノとして理解するにはその文化に深く入り込まないと見抜けないので、結局閉鎖的な意識になっていくのかなと
2011-09-25 01:54:00@nagoo_factory ラッセンは彼の価値体系の中では凄い考えてるし入り込んでる。実際狭いコミューンでだけ売れてたら誰も文句は言わない。しかし要はそこに批評性がない。そういうことかと。
2011-09-25 01:56:59@nagasek『批評性がない』これはわかります ムラ意識、共通言語… 借り物と使ったのは、ここに加わることで自分がその文化を理解したかのようなスタンスを見せることができる という軽さですかね
2011-09-25 02:03:01今さらだけど、昨日まとめていただいた「村上隆とラッセン・ヤマガタ 作品・作家価値と評価の構造」http://t.co/Hf9kVMsX、「村上春樹やよしもとばななには内的精神性なんてない」のところで誤解されそうなのでフォロー。これは価値判断ではないんですよ。
2011-09-26 01:04:16例えばですね。方向性は違うけど三島由紀夫に「内的精神性」はないというのはご了解いただけますかね。あれってピュアに形式的な小説で、意味内容を追ったらほとんど昼ドラの世界だと思います。「美徳のよろめき」とか笑っちゃうでしょ。
2011-09-26 01:06:46だけど三島が駄目だ、価値がない、とはならんわけです。「内部がない」はむしろ80年代文芸批評のタームでは明瞭にアドバンテージとして評価されていたわけで。
2011-09-26 01:09:44恐らく村上春樹で「内的」内容があったのは「ノルウェイの森」で、柄谷行人はそこで村上がイロニーを捨てて「内的」になったからこそ否定的に言及した(『村上春樹の「風景」』)。
2011-09-26 01:12:54@nagasek 同感です。作家性を捨象しているというか、パッケージングこそが作品だと信じているというか。なんでもコンテンツの時代を切り拓いた作家だと思います。
2011-09-26 01:13:38例えば吉本隆明がよしもとばななを良い、としたのは、日本の文学状況に対しばななの有り様が実にクリティカルに機能することを鋭敏に了解したからでしょう。その、まったく同じ側面を捕まえて、柄谷行人は否定する。それはクリティカルの射程が違う。柄谷はある原理性の場からばななを否定した。
2011-09-26 01:18:30つまり「近代文学」の立場から否定した。これは吉本のような短射程、というか瞬間的な「今」の判断ではなく、あるスパンを持った場所からのジャッジなわけです。
2011-09-26 01:20:21で、美術のジャパネスクをどう判断するか。瞬間的な場から肯定するのは一応理解できる(それもずいぶんタームが変わってきつつあると思うけど)。問題なのは、そもそもそういう基本的な意味を外して、誤解あるいは捏造で評価してしまうのがヤバイ。
2011-09-26 01:23:29僕は村上春樹はエッセイから小説から8割方読んでいるし(オウム事件関連のだけどうしても読めない。これは自分の問題)、よしもとばななも一応アムリタまでは全読していて、少なくともその立場から書いてることはご了承を。
2011-09-26 01:29:47