子供→楽しさ→興味→問い→可能性

人間学的に大人を分析してみました。
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スギノマサミ @pesu1028

興味の源泉は何だろう?興味から問いが生まれ、問いから可能性が生まれることは前に書いたけども、興味それ自体が無ければ何も生まれない。1つヒントになりそうなのは「心の揺れ」。人は心を揺さぶられた時にその対象に興味を持つような気がする。人の心がプラスに揺れるとき、それは楽しいとき。

2010-05-06 18:23:31
スギノマサミ @pesu1028

子供は何をやっても比較的よく笑う。それは多分、どんなことにも敏感に楽しさを見出せるからだろう。であるならば、子供に戻ることこそが楽しさを見つけやすくすることであり、しいては可能性を見つける大きな力になるのではないだろうか。

2010-05-06 18:26:27
スギノマサミ @pesu1028

「子供」→「楽しいこと」→「興味」→「問い」→「可能性」。風桶みたいな話だが、これはバタフライ効果でもカオス理論でもなく、それなりに論理的な流れだと思う。じゃあ子供になるにはどうすればいいのか。それは多分、大人を分析することから見えてくる。

2010-05-06 18:30:04
スギノマサミ @pesu1028

(昨日の続き)大人とは何だろう?例えば「大人になったなぁ」とか「大人だねぇ」と言うとき、人は一体何に対して「大人」だと言っているのか。この場合の大人は「思慮深さ」「社会性」「落ち着き」などを表していることが考えられる。

2010-05-07 10:21:37
スギノマサミ @pesu1028

他人が考えないぐらい深いことを発言したとき「大人だねぇ」と言われたり、常識的な行動を当たり前に出来るようになったときに「大人になったなぁ」と言われたり、慌てず冷静に物事に対処したときに「大人な対応」と言われたりするような気がする。まあ「大人な対応」は若干他の意味もあるけれども。

2010-05-07 10:25:45
スギノマサミ @pesu1028

つまり大人とは、思慮深さ・社会性・落ち着きを(一定の基準以上)兼ね備えた人間だと言えるんじゃないだろうか。逆にこのどれかが欠けると「子供」と言われてしまうような気もする。思慮深さが足りなければ「まだまだ子供だな」といわれるし、社会性が足りないと「子供じゃないんだから」と言われる。

2010-05-07 10:31:42
スギノマサミ @pesu1028

落ち着きがないと「はしゃぐな、子供じゃないんだから」なんてことを言われたりもする。まだ他にも要素はあるのかもしれないが、取り敢えずさっき挙げた3つは大人と子供を分かつヒントになりそうだ。さて、昨日の問題に戻って考えてみよう。この要素から導き出される「子供になる方法」とは何だろう?

2010-05-07 10:36:28
スギノマサミ @pesu1028

まず確認しておくべきは、「本当の子供」になってはいけない、ということだ。当たり前だが、自我が芽生え始めた子供(例えば小学校1年生)のようになってしまったのでは、自分ひとりで生きていくことすらままならない。これはさすがにやり過ぎだ。というか、主旨が全く違うので却下。

2010-05-07 10:40:12
スギノマサミ @pesu1028

ここで定義している子供とは「興味の源泉」、つまり、ここで重要なのは大人が失ってしまった興味を取り戻すための「子供になる方法」である。さあ前提を確認したところで話を進めよう。

2010-05-07 10:46:41
スギノマサミ @pesu1028

思慮深さ・社会性・落ち着きはどれが欠けても子供になる、ということはさっき確認した通りだ。ではこの中で興味を妨害しているものは何かを考えてみる。まずは思慮深さ。これは問題ないように思う。深く考えることなしに問いは生まれないのだから、これは妨害どころか残しておくべき要素だろう。

2010-05-07 10:52:17
スギノマサミ @pesu1028

次は社会性。社会性とは一般常識や組織への適応能力を指す。これが著しく欠けてしまっては、いくら可能性があったところでそれを活かす機会を失ってしまう。しかし、こればかりに縛られていると凝り固まった「普通の人」になってしまい、これはこれで可能性が閉ざされてしまうことになるだろう。

2010-05-07 10:58:03
スギノマサミ @pesu1028

だからと言って「社会性をバランス良く身につけましょう」と言ったところで、それでは全く現実味がない。だったらこうしてみてはどうだろうか?取り敢えず社会性は身につけておいて、それを使う場面を必要最低限にしてみる。会社以外の場面で、敢えて空気を読まない発言をしてみる、とか。

2010-05-07 11:02:35
スギノマサミ @pesu1028

他にも、待ち合わせの時間に遅れてみる、周りが生中ばっかり頼んでいても自分はマンゴージュースを頼む、などなど。これをやることにどんな意味があるのかは敢えて書かないが、これが「子供っぽい行動」であるということは、なんとなく分かってもらえると思う。

2010-05-07 11:08:55
スギノマサミ @pesu1028

そして最後は落ち着き。これはどう定義するかにもよるが、「冷静さ」という意味では必要だと思う。ただこの「冷静さ」は、状況に応じて「自分の冷静さのリミッターを外すことができる」という「冷静さ」でもある。普通に落ち着いているだけでは子供になれない、という意味でこれは残すべきだろう。

2010-05-07 11:27:01
スギノマサミ @pesu1028

(また昨日の続き)つまり興味を生み出す人間になるには、「思慮深さ」と「落ち着き」を持ち、そして「社会性」を敢えて無視していく「少しの勇気」が必要だということだ。ポイントはやはり「社会性を敢えて無視する」というところだろう。ここが大人にとって、恐らく一番難しい。

2010-05-08 06:54:25
スギノマサミ @pesu1028

特に(世間的に)優秀と言われる大人ほど、これは難しいと思う。なぜなら、そういう人ほど子供っぽさを矯正され、社会性をねじ込まれて来ているからだ。常識のある人間は社会から好まれる。和を乱さず、すべてが丸く収まるように配慮できる人は、それだけで優秀なサラリーマンである。

2010-05-08 06:58:50
スギノマサミ @pesu1028

これがいいことなのか悪いことなのかは僕には分からない。しかし、この社会性が「その人を押し潰している」、という点は否めない。「和を乱さず」とは「自分をひっ込める」ということであり、「すべてが丸く収まる」とは「自分は二の次」ということである。さて。そこに「自分」はあるのだろうか?

2010-05-08 07:05:29
スギノマサミ @pesu1028

「自分を押し潰す」か「自分を貫く」か。それは自由だ。前者も後者も、違う意味で辛く険しい道のりである。そして一度失った興味を取り戻すのは、「潰した自分を貫く自分に変化させる」という意味で、最も辛い道のりだ。でもさぁ、覚悟を決めるってそういうもんじゃないの?大丈夫、死にゃしないって。

2010-05-08 07:22:41