戦国末期南奥州の強弓集団・竹貫衆と精兵・水野勘解由左衛門光定の事
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鎭西八郎の弓矢かと思ふばかりなるを、屋棟に箱に入れ結付置りと也、行き尋ねしに主人あらずして只箱のみ見たりし」と記され、長年軍記上の幻の存在と思われて来ましたが、昭和六十年に子孫宅の現地調査が行われ、弓と鏃と空穂が奇跡的に発見されて、後に町の重要文化財に指定される運びとなりました。 pic.twitter.com/m7GAkz9h59
2021-01-05 23:21:26発見された鏃の内、大きなV字型の狩股は軍記等に「猫潜り(ねこくぐり)」と記されている、竹貫衆が使用していた大狩股の事ではないかと考えられている。
月食の話題で持ち切りですが、本日は #いい矢の日 でもありますので、毎年恒例ではありますが奥州岩城氏の強弓集団・竹貫衆が用いた大狩股「猫潜り」を紹介しますね。 pic.twitter.com/wBpdP5whaK
2022-11-08 23:32:05その後、遂に実物の弓と鏃をこの目で見る事ができた時の話。
あと土日祝日は閉館していて行く機会を逃していた、古殿町郷土文化保存伝習施設(ふるさとセンター)に展示されている水野勘解由左衛門光定の弓と鏃と空穂も拝見して来ました(写真撮影とSNS掲載許可済み)。かつて行われていた奉納相撲の際に使用して付いたという弓の傷まで見られて眼福、眼福。 pic.twitter.com/Imhizl3bb8
2023-10-09 10:53:51#いい矢の日 なので先月見た水野勘解由の鏃の話。写真整理して気付いたのだが、展示パネルに鏃の長さを測っているものがあり(引用RP画像3枚目左下)拡大して雑に線を引いてみたら、狩股は五寸弱、腸繰矢のほうは六寸あるようで。竹貫衆の矢を六寸と記した軍記や編纂物はそれ程盛っていなかったのだな。 pic.twitter.com/MaG034Dr4X x.com/k_nagae_tkac/s…
2023-11-08 23:17:55竹貫衆の弓と狩股を、伊達氏に贈ったとする興味深い記録も残されている(後述)。
伊達政宗との逸話と『伊達天正日記』の「百丁(張)の弓と狩股」
伊達政宗が岩城の竹貫三河守重光を密かに誘い、伊達側に寝返らせようとしたが重光はそれを断った、と複数の書物に記されている。特に『會津四家合考』は「(味方になった暁には)恩賞は、所望に任せ候ふべし」と破格の提示をしたように書かれており、面白いなぁ……と以前から少し呟いていたのだが、 pic.twitter.com/c3Q4DoQ69d
2023-01-11 23:48:56『會津四家合考』巻之三・岩城常隆、田原谷の城を攻落す事
「去程に、政宗、昨年八月、會津と和睦せられて後は、岩城相馬の人々にも、大抵は睦振(むつましぶり)に見ゆれども、終には隣領を蠺食せんと、常に謀を運されければ、岩城左京大夫常隆郎等、竹貫三河守(重光)が許へ、密に使を立て、近日常隆と、雌雄の一軍すべければ、哀れ如何にもして野心を含み、味方に一味候へ。さあらば、恩賞は、所望に任せ候ふべしと、餘儀もなげに頼まれけるに、三河守、元來忠心至誠の者なりければ、此由、有の儘に、主の常隆に告知らせたり」
向井吉重 [著] ほか『会津四家合考』1,国史研究会,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション
「會津四家合考 巻之三」岩城常隆、田原谷の城を攻落す事 (コマ番号79)
『磐城史料』巻三・常隆田村ノ数城ヲ抜ク
「十七年、伊達政宗密カニ竹貫参河守ヲ招ク、参河守応ゼズ、之ヲ常隆ニ告訴ス」
大須賀筠軒 (次郎) 著 ほか『磐城史料』巻上,小山祐五郎,明45.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
「磐城史料 巻三」野史野史一班十一條・常隆田村の數城を拔く (コマ番号40)
『白河古事考』巻之五
「天正十七年、伊達政宗は(竹貫)三河守を味方に招きけれとも、忠を守り敢て岩城氏に背かさりし」
広瀬典 著『白河古事考』地,堀川古楓堂,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション
「白河古事考 巻之五」竹貫 (コマ番号48)
『磐城志』巻之三
「天正十七年、伊達政宗朝臣は(竹貫)三河守を味方に招きけれども、忠を守り敢て岩城氏に背ざりし」
岩磐史料刊行会 編『岩磐史料叢書』上巻,岩磐史料刊行会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション
「磐城志 巻之三」古墟 (コマ番号146)
仮に伊達氏が竹貫重光を寝返らせようとしたのが事実であったのならば、竹貫衆を引き入れようとするに至る何か切っ掛けのようなものが必要である。一つは人取橋の合戦での活躍として、もう一つは『伊達天正日記』に記されている「百丁(張)の弓と狩股」であろうか……と、うっすら考えていた。
2023-01-11 23:51:57この「百丁(張)の弓と狩股」とは、『伊達天正日記』の天正十六年八月十一日に「岩城竹貫(たかぬき中務)殿よりゆミ(弓)百丁(張)あけ御申候。いん居(竹貫隠居)よりかりまた(狩股)上御申候」と記される、竹貫氏が伊達氏に贈った大量の弓矢の事である。
2023-01-11 23:54:47『戦国史料叢書』第2期 第11,人物往来社,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション
「伊達天正日記 三」天正16年8月 (コマ番号151)
『伊達天正日記』は伊達政宗の側近が記した、当主の日々の動向を記録したものとされており、『伊達治家記録』の天正十六年八月十一日にも同様の内容が記されている。
『伊達治家記録』天正十六年八月十一日壬辰 「磐城殿家臣竹貫中務(諱不知)ヨリ御弓百張進獻ス、同隱居某ヨリ箭根(雁股)獻上ス」
2023-01-26 22:31:31平重道 責任編集『伊達治家記録』1 (仙台藩史料大成),宝文堂出版販売,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション
「貞山公治家記録 巻之六」天正十六年八月十一日壬辰 (コマ番号242)
弓矢が贈られる前の出来事を簡単に整理すると、前月の七月に郡山合戦が岩城氏や石川氏の仲介によって漸く和睦を迎え、二十一日に陣払いが行われた。その少し前の十八日から二十日に掛けては、岩城氏や佐竹氏からそれぞれ引出物が伊達氏に贈られている事が『天正日記』に記されている。
2023-01-11 23:58:38