戦国末期南奥州の強弓集団・竹貫衆と精兵・水野勘解由左衛門光定の事
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又同十三年 高倉ノ戦(人取橋の合戦)ニ 伊達政宗ノ強敵ニ当ツテモ、主将重光ノ采下ニ奮戦シ 数多ノ敵ヲ斃シテ勝ヲ制シ、超エテ十七年十月、須賀川二階堂ノ戦ヒニ加勢ス。丑ト云ウ男来ルヲ 首ヲ引キ政宗ノ本陣ヲ推テ、日ノ丸ノ指物ヲ引キ田村清明ヲ害打ス。
2022-01-10 23:44:59二階堂ノ長臣 森谷筑後(守屋俊重)、逆心 本丸ニ火ヲ放チシカバ、集軍散乱ス。光定ノ引ヲ見テ、大野七郎兄弟 左右ヨリ突入ルヲ、臣 芳賀弥五郎、同 丹内作ノ八兵エ 弟大学(寛永年中 羽州山形之城主 保科家ヘ属シテ五百石給ルト)等ノ家人等戦テ無難、兄弟ノ鎗ヲ取テ首ヲ引ク、
2022-01-10 23:46:26光定ノ馬、走テ泥堀ヘ乗入ヲ見テ、大野大膳大長刀ヲ振テ来ルヲ、大学矢ヲ放テバ大膳ノ馬首ニ中リ堀ニ落チ 其ノ供敗走シ仍主従首尾ヨク引取ルト」
2022-01-10 23:47:41古殿町史編纂委員会編『古殿町史 上巻』昭和45.
第三編 古代・中世の古殿, 第二章 中世の古殿, 第六節 竹貫氏の興亡, 四 竹貫氏一族と家臣団. p232
『武家事紀』巻第二十二・伊達政宗奥州摺上原合戦附須賀川城責 「…竹貫中務ニ屬〆 水野勘解由ト云、精兵ノ強弓在城ス、狩股ノ間六寸、廿間丗間ニテハ 人ノ頭ヲ射切ホトノ強弓也、此兵ニ出合モノ 或馬ノ太腹ヲ射切ラレ、高股ヲ射トヲサレサルハ ナカリシトソ」 pic.twitter.com/3xRbAdVSn2
2022-11-04 22:40:30素行子山鹿高興 著『武家事紀』中巻,山鹿素行先生全集刊行会,大正4-7. 国立国会図書館デジタルコレクション
「武家事紀 巻第二十二・續集」伊達政宗奥州摺上原合戰附須賀川城責 (コマ番号97)
『武家名目抄』と『古事類苑』にも水野勘解由の名が見えるが、いずれも『藤葉縈衰記』と『會津四家合考』の記述から抜き出されたもののようだ。 pic.twitter.com/NL2eHErrfQ
2022-11-05 21:44:35今泉定介 編『故実叢書』武家名目抄(塙保己一),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション
「武家名目抄 第二百十九冊 弓矢部四上」 (コマ番号35)
今泉定介 編『故実叢書』武家名目抄(塙保己一),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション
「武家名目抄 第二百四十七冊 甲冑部七」 (コマ番号39)
今泉定介 編『故実叢書』武家名目抄(塙保己一),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション
「武家名目抄 第三百三十七冊 術藝部三下」 (コマ番号21)
神宮司庁古事類苑出版事務所 編『古事類苑』兵事部9,神宮司庁,明29-大3. 国立国会図書館デジタルコレクション
「古事類苑 兵事部三十四 弓矢一」 (コマ番号111)
文書から見る水野勘解由の戦功
【文書から見る水野勘解由①】 天正九年(1581)二月十七日 岩城常隆感状 「竹貫三河守下ニ水野主典、此度之高名不及是非次第、就其為褒美、板之物貳端出置候 天正九年巳 二月十七日 常隆(花押) 水野主典」 pic.twitter.com/QmU93q7NKm
2020-06-27 23:46:59竹貫三河守重光の臣・水野主典が戦功により、岩城常隆から褒美として板之物を二端与えられた感状。主典は勘解由使の従七位官職である事から、彼が南奥の軍記に数多く記された水野勘解由であるとされている。
2020-06-27 23:51:59【文書から見る水野勘解由②】 天正九年九月十八日 岩城常隆感状 「数度之於合戦、致高名事、不及是非、就之名を替、為祝儀、大刀壱腰出之置候 天正九年巳 九月十八日 常隆(花押) 水野大学助」 pic.twitter.com/7KIWvpd7t2
2020-06-27 23:55:50数度の合戦で功名した事により、岩城常隆から太刀を賜った書状。また、主典から大学助に名を替えたともある。官職的には勘解由主典は従七位で、大学助は正六位に相当する為 大出世なのでは……どれ程の活躍をしたのか具体的に記されていない事だけが残念。
2020-06-28 00:01:46【文書から見る水野勘解由➂】 年代未詳三月廿七日 岩城常隆書状 「態申入候、扨々此度南郷より働申処ニ、竹三為加勢被打越、然処ニ、羽黒之城代越前方、両人致打捕申手柄、不始与乍謂、高名弥々不及是非仕合存候、吉事重而、恐々謹言 三月廿七日 常隆(花押) 水野大学殿」 pic.twitter.com/wjNtU96ZbK
2020-06-28 00:11:05竹貫三河守(竹三)の加勢として、南郷は羽黒城代・越前を討ち取った事を賞した感状。大学助とある為 天正九年より後と見られるが時期は不明、一説には天正十二年頃との見方も。両人の手柄とあるのはこの後に紹介する竹貫三河守宛ての書状に記された、水野大学と水野但馬の二人と見られる。
2020-06-28 00:16:19【文書から見る水野勘解由④】 年代未詳三月廿七日 岩城常隆書状 「態以脚力申入候、仍南郷より赤坂江押寄、働申処ニ、為加勢被打越候、御太儀千万ニ存候、左候得者、羽黒之城主越前方、水野大学同但馬両人致打捕申事、乍謂数度之高名、此度之儀ハ不及是非、仕合共候、於貴方も祝着迄候、 pic.twitter.com/kDa6XvoRVa
2020-06-28 00:20:29佐竹氏が南郷から赤坂氏の領内に侵攻した際竹貫氏は赤坂方へ加勢し、竹貫三河守の臣・水野大学と但馬が佐竹方の羽黒城代・越前を討ち取った功を祝した、岩城常隆の竹貫三河守に宛てた感状。➂の感状と同時期に出されたとする。水野但馬は勘解由の子もしくは弟という見方がなされているが、詳細は不明。
2020-06-28 00:34:32これらの文書は『新編会津風土記巻之六』に所収された『 水野主典所蔵文書』に纏まっているのだが、『矢内文書』や『岩城文書』等どうやら複数箇所に同内容の写しが存在し、『棚倉沿革私考』でもその事が記されている為、写しとは言え信憑性があるものと見られている(一連の画像は『岩城文書』から)
2020-06-28 01:09:17花見朔巳 校訂『大日本地誌大系』第30巻,雄山閣,昭7-8. 国立国会図書館デジタルコレクション
「新編會津風土記 巻之六」提要之三 (コマ番号59)
『棚倉沿革私考』に記された、水野勘解由に関する四つの文書の『新編会津風土記』と『岩城文書』での表記の違い。古殿町の矢内家に伝わる『矢内文書』でも微妙な表記違いがあるものの、内容そのものは大きな改変が見られない所に写しのリアルさが伝わって来ると感じてしまうのは私だけだろうか。 pic.twitter.com/9ADnMKgHLt
2020-06-28 23:40:15福島県史料集成編纂委員会 編『福島県史料集成』第3輯,福島県史料集成刊行会,1952. 国立国会図書館デジタルコレクション
「棚倉沿革私考 巻之三」(コマ番号289)