趣味の古代史「おもしろ」談義

「趣味の古代史」について鬼塚健太郎さん(@KentaroOnizuka)と雑談しました。そのログをまとめます。内容は、既存文献を元にした推論の積み重ねなので、その推論内容自体もその正確さも保証しません。(非専門家による雑談です。)ただし「岡目八目」という面があるなら面白いです。ご興味があればどうぞ。
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MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka 「古墳築造がかなり遅れて」というのは古事記に出てましたっけ? 何にしても、崇神と垂仁の2世代かかって、政祭分離をやったことになっているので、それに反対した勢力があったとか? #知らんけど

2022-12-17 01:12:12
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

古墳時代は基本的に箸墓古墳を最初の大王墓としていて、その築造時期は3世紀半ばだが、大王墓は箸墓以降、 西殿塚→桜井茶臼山→行燈山→渋谷向山となる。西殿塚は3世紀後半だが、桜井茶臼山からは4世紀初頭で、渋谷向山になると、4世紀後半になる。

2022-12-17 00:23:01
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

で、西殿塚から桜井茶臼山や行燈山までまでが40年近く空き、渋谷向山までは、さらに50年ぐらい空く。 その時代を、崇神、台与、垂仁、景行の時代とすると、だいたい30年ごとぐらいに大王墓があって良いはずだが、特に、行燈山から渋谷向山の間が50年以上空いているのが、疑問だった。

2022-12-17 00:23:02
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

結局、その理由は、崇神の晩年に垂仁が生まれ、垂仁は短命で、一方で、景行はかなり長命でかつ、10代で王となった、ということで、説明できる。 崇神は、古事記の崩年干支で、258年崩御(宝算48歳)、垂仁は、その約30年後の290年頃崩御、 で、景行は、355年崩御となる。

2022-12-17 00:23:02
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

すると、西殿塚は崇神陵で、260年ごろ。桜井茶臼山は台与(豊鍬入姫)の墓で、築造は280年から。 行燈山(崇神陵とされているが)は垂仁陵で、290年から築造。 で、渋谷向山古墳は、景行陵とされていて、それで良さそうだ。ならば、360年ごろ築造。 だいたい大王墓と古事記の記録が合う。

2022-12-17 00:23:03
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno 垂仁は、崩年が287年ぐらいです。 でも、その年代の大王墓は、って言うと、4世紀初頭築造の行燈山古墳ですね。まあ、早くて310年ごろかと。 だから、垂仁崩御から20年ぐらいたってます。 仁徳陵は大林組の推定で、築造が16年です。行燈山古墳は、仁徳陵の1/10ぐらい(体積)だから、2-3年で築造可です。 twitter.com/KentaroOnizuka…

2022-12-17 01:21:36
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka これだったかな?一度、京都女子大時代に高校訪問をやった時、よく来てくれる高校の一つが奈良にあって、その訪問をして。帰りをずっと(かなり遠くまで)歩いたのですが、その時に、見かけて、びっくり仰天したことがあった。私が知っている天皇の古墳があったのですよね。それだったような気が...。

2022-12-17 01:30:33
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno だったら、行燈山古墳は290年には築造できてそうなんですよ。 なんか遅れる事情があったのか、あるいは考古学的に、行燈山古墳の築造年代推定に誤差がでたか、です。 ただ、あの古墳時代前期の年代推定は、誤差が20年ぐらいだから、最大見積もって、やっぱり、築造に10年以上はかかってます。

2022-12-17 01:26:01
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno 箸墓古墳(卑弥呼の墓とされる)は、たぶん、247年に卑弥呼が死んで、その直後に、魏から張政が来て、古墳築造が目撃されてます。張政は10年も倭に滞在したとは思えないので、箸墓築造は、2-3年で終わっているはず。 つまり、250年ごろには完成したはずです。行燈山古墳は箸墓より小さいです。

2022-12-17 01:30:17
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka お詳しいですね。京都でもそうですが、ちょっと道が奥まっているので行ってみると、そこが天皇の御陵だったりして驚くことがあります。奈良は田んぼの真ん中が少し茂って小高くなっていので調べると、それが何とか天皇の古墳だったり。少し道を曲がるとその角に御陵があったり。まぁ楽しいところです。

2022-12-17 01:35:14
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno 行燈山古墳は、天理市で、国道169号の東側で、国道から見えます。 一応崇神陵になってます。 画像下の名前がないのが、渋谷向山古墳で、景行陵です。 ただ、崇神は258年崩御とされるので、行燈山古墳は、崇神陵としては、新しいです。だから垂仁陵でしょう。 垂仁陵は宝来山古墳ですが、 pic.twitter.com/tfy5AMfssa

2022-12-17 01:37:36
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鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno これは、渋谷向山古墳ぐらいの年代(4世紀後半)で、垂仁陵としては新し過ぎで、年代からして、ヤマトタケルの墓では、と。 場所も変だし。なお、宝来山古墳は、縮小相似形古墳が、ヤマトタケルの遠征したところにあると言う話があります。 pic.twitter.com/KHw37EdJIT

2022-12-17 01:41:39
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MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka そうそう、日本武尊伝説でも、ここは何をした場所だとか、多くの足跡が各地にあって面白いですね。そのおじさんが垂仁だったかで、繋がるし、刀剣を持たずに伊吹山で討たれたなど、関係がありそうな気配。

2022-12-17 01:47:32
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno なお、崇神陵としては、年代からして、西殿塚古墳がふさわしいです。 手白香皇女陵とされてますが、手白香皇女は、継体天皇の皇后で、欽明天皇の母ですから、6世紀の人で、3世紀後半の古墳の被葬者のはずはありません。 で、西殿塚、行燈山、渋谷向山は、北から順番に並んでいて、 pic.twitter.com/8PX7xjKeRZ

2022-12-17 01:48:03
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鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno 西殿塚を崇神陵、行燈山を垂仁陵、渋谷向山を景行陵とすると、年代も位置関係も含めて、きっちりはまります。 三世代、三代の天皇陵ってことです。 で、在位年数が長かった、景行天皇の渋谷向山古墳は、初めて、卑弥呼の墓とされる箸墓を超えた規模になります。

2022-12-17 01:52:18
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno まあ、家から近いですしね。 家の近所にも古墳がかなりあります。 佐紀古墳群とか。平城宮跡の北側ですね。4世紀末ごろの古墳群です。

2022-12-17 01:55:34
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno ヤマトタケルは、垂仁天皇の孫ですね。生まれたのは、300年ごろで、没したのは、340年ごろです。 たぶん、狗奴国平定をしたのがヤマトタケルです。 で、ヤマトタケルの話が、神武東征伝承になりますね。ヤマトタケルは九州から東国まで遠征してますから。

2022-12-17 01:59:48
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka そうなんですね。奈良には不思議な名前が多いですし、面白い。 今通っている関西外国語大学の枚方市も(古代史的に)意外に面白くて、おそらく朝鮮半島とのつながりが強かったのではないかと思ってます。百済寺とか。大学キャンパスが二つあって、御殿山、中宮。怪しい名前だと思われませんか?(笑)

2022-12-17 02:03:58
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno イザナギから神武までの神々の系譜は、きっちり、第七代孝霊天皇からヤマトタケルまでの系譜と一致してますからね。つまり、系譜はコピペで作られています。 孝霊天皇の妃は淡路島の鉄鍛冶の棟梁の娘で、2人は淡路島で結婚して、そして、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)と桃太郎(吉備津彦)が生まれます。

2022-12-17 02:05:15
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno 今回、孝霊天皇からヤマトタケルまでの系図を描いたのも、その、系譜コピペを示すためでしてね。 すでに、一回書いたんですけど。 awexion.jp/cgi-bin/a.cgi/…

2022-12-17 02:07:26
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka おぉ、コピペは古代から(苦笑)。 そういうことだったのか... 神武の正妃だった五十鈴姫命ですが、彼女も姫蹈鞴となっているので、製鉄関係ですよね。違いますかね。

2022-12-17 02:08:27
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka しかも、その枚方市駅のいくつか手前には、樟葉(くずは)という駅があって、クズハの宮とはまさに第26代携帯天皇の宮廷があった場所。その川向には携帯天皇陵として知られる、茶臼山古墳(あるいは今城塚古墳)があってですね、古事記には三島の藍野に御陵が作られたことになっていて、一致してます。

2022-12-17 02:13:31
鬼塚健太郎 @KentaroOnizuka

@y_mizuno あれは、出雲の事代主の娘ですから、出雲は6世紀ごろから製鉄してますね。八岐大蛇伝承も製鉄絡みですし。 ただ、神武は1世紀前半の人と思われますので、神武の妃が出雲の王族だった可能性は高いですが、製鉄と絡むのは、後の時代に作られた話ですね。 事代主は、出雲風土記には出てきません。

2022-12-17 02:13:33
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka それは聞いたことなかったはずです ^^;

2022-12-17 02:15:02
MIZUNO Yoshiyuki 水野義之 @y_mizuno

@KentaroOnizuka 事代主は、大国主の弟だったかですが、古事記には出てますよね。創作? 他方で、五十鈴姫は、三島(今の茨木、高槻、島本町あたり)で、神武と出会ったと、古事記には書かれていた筈。 だから、事代主は鰐鮫に乗って大和川を降ってきた、という伝説があったり。場所がちょっと合わない。伝説の世界?

2022-12-17 02:20:10
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