趣味の古代史「おもしろ」談義
神武からヤマトタケルまでの系図、詳細、できた。 まあ、系譜にある全員ではないけれど、主だった人々、妃、その他書き込んだ。かなりややっこしい。 pic.twitter.com/eDLluw2qTJ
2022-12-15 23:25:34まあ、神武から孝安までの部分も、一応、妃や皇后、皇子女込みで書く必要がある。 ただ、神武を除くと、綏靖から孝安までは、全て皇后(妃)は1人だけ。 だから、孝霊以降みたいな複雑な系図にはならない。
2022-12-16 01:25:33逆に言えば、なぜ孝霊からあと、いきなり皇后や妃が数人になるのか、っていう話。合理的に考えれば、卑弥呼共立への布石として、孝霊が原ヤマト王統の近親者と姻戚関係を持ったことと、ついで、孝霊の皇子の孝元は卑弥呼共立後に、共立に参加した河内などの豪族と姻戚関係を持ったことによる。
2022-12-16 01:32:03また、開化も、原ヤマト王権の末裔である和邇氏から姥津媛を妃に迎えて、彦坐王が生まれる。彦坐王は、神功皇后や継体天皇につながる息長氏の祖。 かつ、母系では和邇氏で、かつ和邇氏は母系で尾張氏になる。 ヤマト北方は、東から尾張氏(美濃)、和邇氏(近江)、息長氏(近江、丹波)と分布。
2022-12-16 01:50:17この尾張、和邇、息長の3氏は、伊勢湾沿岸から東の狗奴國平定の主力部隊で、景行の時代は、倭姫(後に伊勢神宮の初代斎宮)と協力して、狗奴國攻略に尽力している。 一方で、狗奴國攻略の南回りは、紀伊に実家のある豊鍬入姫(台与)とその同母兄弟の豊城入彦が担当していて、
2022-12-16 01:50:17後の時代はヤマトタケルが引き継ぐ。 まあ、卑弥呼時代から約100年にわたり、狗奴國との抗争が続いたようだ。が、狗奴國の王族は平定されたあと、どうやら出雲大社に祀られたようだ。それで、狗奴國平定の話が出雲國譲りの伝承となって出雲神話になった。
2022-12-16 01:50:18ややバズりそうなので、関連話題でもあるから、固定ツイート交替。 twitter.com/KentaroOnizuka…
2022-12-16 01:52:10イザナギ・イザナミのモデルは、孝霊天皇とハヘイロネな訳だが、ハヘイロネは、安寧天皇(倭国王帥升)の曽孫で、原ヤマト王統(安寧→懿徳→孝昭→孝安)の分家の淡路王統なんだが、この淡路王統は、おそらく弥生後期の国内最大級の製鉄遺跡の五斗長垣内遺跡の支配者だろう。 ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94…
2022-12-12 14:01:28かなり詳しくなった。 このあと、神武から孝安(と孝霊)までを分離して、1枚にする予定。 pic.twitter.com/Ou2udRCHpc
2022-12-16 12:33:28神武から孝安と孝霊までいれて、書いてみた。 世代的に、孝安と孝霊は同世代だし、孝霊の母とされる、押媛は、孝霊の子の世代で、ここを繋げるのはかなり無理がある。孝霊は恐らく、原ヤマト王権の当主(王)にはなってなくて、卑弥呼の父として、ヤマト王権の王に後付けされた様子。 pic.twitter.com/hKFulqFwWd
2022-12-16 15:30:24つまり、孝安天皇の時代に、孝元天皇により卑弥呼が共立され、孝安はそれを承認したことで、実質、孝安が卑弥呼に譲位した形になる。その結果、卑弥呼の父(既に死亡)が孝安の後にヤマトの当主とされ、卑弥呼女王のもとで、孝元が当主についた形。ただ、孝元も卑弥呼の魏への朝貢前に崩御している。
2022-12-16 15:42:10ということで、 実際は、 孝昭→孝安→孝元(卑弥呼共立後のヤマト王統当主) を、 孝昭→孝安→孝霊→孝元 ということにされた、という感じだろうか。
2022-12-16 15:42:10古事記の天皇の宝算(享年)と崩年干支から、天皇の生年から崩年を西暦で換算してみた。 まあ、孝霊が孝安の子では有り得ないとか、仲哀はヤマトタケルの子ではなかろうとかが分かる。応神も仲哀や神功皇后の子ではない。 武内宿禰が、景行から仁徳(即位前だが)に仕えたのは本当かもしれない。 pic.twitter.com/9Tppt9fkAT
2022-12-16 17:36:05基本的に長生きすると、墓がでかい、というのはだいたい当たっているように思う。たぶん、卑弥呼は87歳ぐらいまで生きて行たし、景行も長生き。応神、仁徳もかなり長生き。
2022-12-16 17:39:43ちなみに、雄略はこの図より先まで生きている(489年崩御)。図は、475年までで、安康はこの年が崩年らしい。 なお、古事記では、成務からはほぼ崩年干支があり、かつ、倭の五王の南朝宋への朝貢年とかなり整合する。 が、景行以前は、崇神のみ崩年干支がある。
2022-12-16 19:05:34ただ、成務の在位が、60年となっているので、実際は1年未満で、景行の崩年干支は、成務と同じだと考えられる。景行の宝算(享年)から、景行の生年を割り出し、かつ、短命な垂仁(宝算33歳)から、崇神の崩年(258年)直前に垂仁が生まれたとして、順繰りに、神武まで計算している。
2022-12-16 19:05:34古事記の宝算(天皇の享年)は、まあ、あまり問題はなく、神武までつながる。神武の生年は、西暦の1年前後になる。 もちろん、古事記に記載の宝算(を60引いたりして補正したもの)が、信頼できるかは別の話。 ほかに資料はないし、日本書紀の崩年干支や宝算は、倭の五王のところですら合わない。
2022-12-16 19:05:35まあ、全部信頼できない、としたら、勝手に古代史を作ればよいだけの話。 でも、古事記の宝算や崩年干支が、中国の史料や考古学的な部分とも、齟齬がないなら、古事記の内容はある程度信頼できると思う。 少なくとも、日本書紀ほどデタラメではない。
2022-12-16 19:05:35@KentaroOnizuka 拝見しました。垂仁天皇の第1皇子だった、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が抜けていると思います。ご確認を...(途中で暗殺されたので、消されてしまったのかもしれませんが、ちゃんと彼を祭神とする神社があります)
2022-12-16 23:00:18@y_mizuno いや、全部入れると、書ききれないので、とりあえず、後々の議論に必要な皇族だけです。 たとえば、垂仁の皇子で、継体天皇の母、振媛の祖となったイハツクワケも書いてません。 例えば、景行天皇の場合などは、大量の皇子女がいますから、無理です。
2022-12-16 23:05:38@KentaroOnizuka なるほど。私がたまたま知っていたので、知ったかぶりして書いてみましたが、やっぱり...(失礼しました。)
2022-12-16 23:08:01@y_mizuno ただ、イリヒコ、イリヒメは重要です。 最初のイリヒコは崇神(ミマキイリヒコ)です。崇神か異母弟の彦坐王の子孫(男系、女系とわず)のみが、イリヒコ、イリヒメです。 おそらく、卑弥呼の資産の継承者で、後の三種神器の継承につながりそうです。 卑弥呼は、日女神(神をワと読む)で、
2022-12-16 23:21:15@y_mizuno 卑弥呼とは、日の女神ですから、卑弥呼の死は入日(日没)です。だから、入日子、入日女は、日没後の継承者だと考えています。 天皇でイリヒコは、崇神と垂仁だけですが、イリヒコでない景行も、皇子女には多数のイリヒコ、イリヒメがいます。最後は応神妃の高城入姫です。
2022-12-16 23:26:47@y_mizuno 応神からあと、イリヒコ、イリヒメはいません。 で、イニシキイリコは、剣など武器を大量に作って、神宝として、のちに、物部連がその神宝を管理するようになり、それが、石上神宮ですね、何回か行きましたが。 イニシキイリコも卑弥呼資産(中国や朝鮮半島の武器製造技術)の継承者でしょう。
2022-12-16 23:32:53@KentaroOnizuka そうそう。それで、おそらくそれを不満に思っていた勢力の讒言に遭って、暗殺されたことになっていたと思います。卑弥呼資産という視点はなかったので、興味深いです。
2022-12-17 01:15:59@y_mizuno にしても、垂仁天皇は、推定で宝算(享年)33歳らしいですが、その間に、2人の皇后と7、8人の妃がいて、17人の皇子女がいますね。 垂仁は33歳で突然崩御したようです。 古墳築造がかなり遅れていますね。 中国の晋王朝からも、倭王と認定された、大王でしたが、なんか事件があったのかも。
2022-12-16 23:46:17