諸葛亮死後の蜀漢の政治の流れについて
姜維は蒋エンの下にあって、よく問題点を理解していた。この頃の蜀漢では、一人の権力者によって北伐を実施する事は出来ない。宰相が漢中にあっては、成都の連中の不満が高まるからだ。そこで、姜維は陳祗と深く結び付いたのだ。実に慧眼である
2011-11-15 19:04:43@HAMLABI3594 健在なら確実に諸葛亮の後釜でしょうし、失脚してても生きていれば誰かが担ぎ出しかねない存在ですね。
2011-11-15 19:16:03@sweets_street 疑わしさは始皇帝遺命が10(史書で正式採用)とすれば漢武帝遺命は8(敵対者が糾弾)、諸葛亮遺命は5.5といったところだと思ってます。
2011-11-15 19:24:19@Golden_hamster 武帝遺命と諸葛亮遺命は始皇帝遺命と違って、筋目の面でより正当性がある後継者候補と輔政適任者がいないところが陰謀説を唱えるには苦しいかも知れません
2011-11-15 19:47:13姜維は政治が出来ない、とよく言われる。確かに彼は軍事面の功績で出世していった。しかし、政治が出来ないなんて事はない。彼もまた一級の政治家だ。政治家としての嗅覚が優れていたからこそ、陳祗との分業という手段に至ったのだ。
2011-11-16 19:12:54宰相自ら皇帝を抑えるか、宰相の分身足り得る人物に皇帝を抑えるかしか、政権を安定させる方法はない。諸葛亮だけが例外だった。蒋エンは諸葛亮になろうとして失敗し、費イは長く漢中に留まる事が出来なかった。
2011-11-16 19:23:35漢中にあって北伐を担当する宰相は、成都にいる皇帝の近辺には手が回らない。特に、独裁者の色彩を帯びる宰相であれば、不満を全く出さずに居るのは不可能だろう。不満を持つ者が有力者であれば、皇帝と結び付き、宰相の失脚を狙う事もできる。
2011-11-16 19:18:04そして彼は失脚した。後を襲った費イにも、諸葛亮は理解できなかった。諸葛亮を信奉するあまり、彼の危うさを見る事が出来なかった。それを理解していたのはただ姜維だけだった
2011-11-16 19:36:07その諸葛亮とて、一歩間違えれば権力の座から滑り落ちていたかもしれない。それを防いだのが、留府長史たる張裔と蒋エンだ。だからこそ、蒋エンが後継に選ばれた。諸葛亮の下にあって漢中に居る者には、成都は見えない。だから蒋エンの功績を理解できない
2011-11-16 19:31:32諸葛亮になるという方法以外に、政権を安定させる手段は一つしかなく。そこに辿り着いたのは、ただ姜維のみである。諸葛亮と姜維以外に、大規模な北伐を実施できた者がいなかった事がそれを示している。
2011-11-16 19:26:43こう書くと、師弟関係とは言えないし、諸葛亮を信奉もしてなかった姜維だが、実は諸葛亮を真に理解していたのは姜維だった、というストーリーになる。多分、諸葛亮を盲信している昨今の姜維像より、こっちのがカッコいい
2011-11-16 19:43:39諸葛亮の構想は、蒋エンが宰相として成都を押さえ、費イが北伐を主導する方法だったのではないか?成都と漢中、どちらも押さえなければ北伐ができないとすれば、後継に選んだ二人が、そう仕事を分担するのが合理的だ。
2011-11-16 20:03:24@Jominian 「姜維は戦争屋で後ろを顧みずに北伐に明け暮れた」とよく言われますけど、顧みないどころか背後を陳祇に完璧に押さえさせた慧眼は凄いですね。劉禅に激賞されたくらいだから陳祇は相当期待に応えたでしょうし。蒋琬・費禕の失敗を生かした政治的センスは恐ろしいですね。
2011-11-16 20:16:26@Mar__sch 実際、5年間ろくに帰らなくても政権が微動だにしませんでしたからね。蒋琬は漢中に出るや3年ちょっとで失脚してます。陳祗が死ぬと姜維は成都に残り続けましたが、あれも必然です。姜維の失敗は、陳祗の後継が作れなかった事ですね。
2011-11-16 20:25:19@Jominian 段谷の敗北後すぐに何事もなかったように出兵するとかありえないですもんね。姜維・陳祇体制が稀有なものであると理解できました。別格の諸葛亮を見て蒋琬・費禕も同様と思い、彼らが薄氷の上にいたことを元々知らなかったですが、これには驚嘆を禁じえません。
2011-11-16 20:37:08