攻撃衝動の集団的組織化とネルフ・ゼーレ・戦略自衛隊-バタイユ的解釈-
- Abraxas_Aeon
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富の際限なき発達を目指して剰余力を吸収する企業の段階にまでは到達していない。労働は維持を目指しているに過ぎぬ。予め祭式の限界を設定するだけだ(その生産力が祭式の反復を確保し、そして祭式はその生産力の源泉となる)。ただし共同体だけは崩壊を免れる。生贄が暴力に委ねられるのだ。『呪部』
2010-05-18 23:28:08一般に犠牲の行為とは、生と死とを一致させること、死に生の迸出を与えること。生に死の重みと眩暈と抜け道とを与えることであるそれは死と混り合った生であるが、しかし犠牲においては同時に、死は生のしるしであり、無限への抜け道なのである。 『エロティシズム』
2010-05-18 23:28:35商業誌を見ると、よくミサトの人物紹介に作戦部長としてのミサトが有能な軍人とか指揮官というような説明がされるようなことがあるが、実際に彼女が打ち立てる「作戦」とは計画的というより博打が多く、それはまさしく「好運の一撃」であり、俗の時間の中で蓄積された技術的・物質的な富の蕩尽である。
2010-05-18 23:32:51@MUMUMU4yyk ご安心を。なにもミサトだけが蕩尽しているということを明かそうとしているわけじゃございませんのでw。(最後にゼーレと戦略自衛隊が控えているw)
2010-05-18 23:47:42如何なる賭けへの投入も、如何なる供犠も、肉欲の過剰と同じように、力(force)の消失であり、消費であるのだから、我々は、自分に消費が生じるそのたびごとに、空約束であろうとなかろうと、利得の約束によって、この消費を理由付けせざるを得ないのである。『ニーチェについて 好運への意志』
2010-05-20 00:43:54上層部にしろ下層部にしろ、使徒は、俗なる[=生産的]時空に対する聖なる[=消費的]時空において、犠牲の儀式、すなわち人間性と動物性のジンテーゼされた暴力行使の対象となる。この際に使徒は、ミサトに限らず誰においても普遍的に「神聖にして呪われたる生贄」として聖別されている。
2010-05-20 20:12:30使徒も富の総体の一部分と見做せる。生贄とは「有用」な富の総体から取り除かれる一種の剰余であるであるとされ、それは利得なしに蕩尽(或いは焼尽)つまり永久に破壊・消費されるためにしか抽出されない。それは生贄と見做されるや否や、苛烈な蕩尽へと結び付けられた「呪われた部分」となる。
2010-05-20 20:12:57しかし、実際には利得なしなのだが、この犠牲の儀式には劇中のどのような立場の人間においても、「空約束」であっても、これに理由付けして利得があるように思い込んでいる。「結局は生にとっての価値が重要である」というニーチェの言うことがここでも当てはまっている。
2010-05-20 20:13:33劇中の誰某にとっても実際には全く利得がないが、自分で自分に利得があるかのように「単なる消費」に理由付けして、使徒を犠牲の対象としているということは、理由如何に関係なく、誰もが普遍的に使徒に対して呪詛を与えてそれを「神聖にして呪われたる生贄」と見做しているということである。
2010-05-20 20:14:29聖なる時空でなされること→俗なる時空において生産した富および生贄として抽出した「呪われた部分」の犠牲・蕩尽・消費→人間性と動物性のジンテーゼされた暴力行為→生と死を一致させること→死に生の迸出を与えること→生に死の重みと眩暈と抜け道とを与えること。
2010-05-20 20:15:54ほんと、この間そんな話になっていたのでドキッとしましたw QT @Abraxas_Aeon : @hinocchi なんかタイムリーな話になってるようですね、「生贄」。私もまたとぅぎゃっておきましたけども。
2010-05-20 22:50:00「夕」は「肉」を表すそうです。「口」が神様への捧げ物の入れ物だから、あわせて生贄だそう。 #nhk QT @fumi_neko : @hinocchi 「タ」は生贄なんですか!・・・ってNHK見ろってことですねm(*- -*)m
2010-05-20 22:51:29