【一部セルフ引用あり】河野有理による「なんとなく社会福祉だけあってほしいアナーキスト」への考察
途中でまとめ主が考察を入れているが、これはツイートを引用したShin Hori氏及び河野有理氏の解釈や見解を正確に反映したものではない。ご本人たちには別の言い分が有り得ることにも留意されたし。
大元の話 Shin Horiの主張
Shin Hori氏のツイート
大戦後の日本の言論や論壇の世界では長らく左派が有力だったとかいう議論があるが、左派といっても実際は社会主義派というような人は少なくて、多数の評論家やジャーナリストは「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」みたいな感じの論調が多かったような気がする。
2023-08-02 12:07:49⇒ もう少しいうと、日本の言論界で割と多かったのは 「社会福祉と文化施設だけはあってほしい無政府主義者」 みたいな緩やか左派的な論者だったのではないか。 こういうのは欧米流のポリティカルコンパスの「経済右派・左派」の図にはうまく落とし込めない。
2023-08-02 12:12:51⇒ 変な言い方になるが、戦後日本の左派的な言論界の多数派も、ある意味「小さな政府主義者」だったのである。 ただ一般的にいう「小さな政府」は、警察や国防など安全維持の最低限の国家機能を意味するのだが、戦後日本の言論界の多くは「社会福祉と文化施設だけをやる小さな政府」を考えていた。
2023-08-02 12:17:54⇒ 戦後日本の左派言論の「社会福祉と文化施設だけやる小さな政府」を良しとする空気は、結局は「小さな政府」志向であることには違いがないから、結局は「政治家や公務員の無駄」の攻撃にとびつく。 朝日新聞が福祉軽視ではないのになぜか小さな政府志向で公共支出の無駄削減にうるさいのはその一例
2023-08-02 12:23:10まとめ主考察 1 「アナーキストとは」
アナーキズム (アナキズムとも、無政府主義)とはあらゆる権威と権力を否定し、自由な個人による合意によって社会運営が行われるべきという思想。言葉の意味は古代ギリシャ語で「支配者がない」という意味。その思想を持つ人をアナーキストという。アナーキズムは人々や社会を支配し運営する権力や、なにがしかの正当性を認める・認めないの決定力を持つ権威、両方を否定する。
まとめ主考察 2 「戦後日本の福祉と文化保護」
戦後日本の福祉は経済活動から福祉財源を徴収したり、また全国でなるべく均一な福祉を享受できるよう政府が整備したものであった。文化においても政府は文化財や伝統文化の保護、文化活動への助成、文化に貢献した者への叙勲を行ってきた。
これらは徴税や予算執行、中央官庁による調査と事業遂行、その他行政権の執行など、強い内政権限を持つ日本政府あってこそのものである。またその政府の正当性を形式により担保しているのが、国事行為を行う天皇という権威である。
戦後日本の福祉や文化事業を、個別案件への是非はともかく「国・政府はそういう事業を行わねばならぬ」と考える人はアナーキストではいられない、むしろ権力と権威を必要としている。換言すれば国家や共同体といったものの維持・発展と、左派が望む福祉や文化の持続には密接な関係があるということになる。年金や福祉事業の実効性(人手の確保など)、それらを支える様々な経済活動や地域活動を想像して貰えると良いかも。
アナーキズムは必ずしも福祉や文化保護と反目するわけではないが、戦後日本が行ってきたそれはアナーキズムでは実行不可能なものであり、むしろそれとは対極にある大きな政府を必然的に志向するものである。
まとめ主考察 3 「シンホリは何言いたいの?」
厳密な解釈は本人の言によるものしかないのだが、彼の戦後左派評は…
「国家の維持・発展を本気で考えているわけじゃないし、自分が無関心な分野はどうでも良いけど、自分が関心のある分野だけ国は頑張ってほしい、となんとなく考えてきた人たち」
という趣旨だと思われる。
彼の主張に対する批判的な反応として「左派が福祉を求めるのなら、左派は最初から大きな政府志向ではないのか」というものがある。福祉国家を志向するということを純粋に考えれば必然的に大きな政府志向になるので、「福祉を重視する小さな政府やアナーキズムは有り得ない」のは間違いない。
ただここでシンホリ氏が提示した論点は「福祉を重視するなら本当はちゃんと大きな政府志向をし、政治家や言論人は国家の持続性にコミットしなければいけなかったのに、それをしなかったのが戦後左派ではないか」であり、その証左として「政治家や公務員の無駄を攻撃する」「公共支出の無駄削減にうるさい」を挙げられている。自論は大きな政府志向を前提としているのに、大きな政府を維持する国家というものを考えず、むしろ嫌っていたことの矛盾を指摘している。
公共支出に関しては、戦後左派が全員が全員毛嫌いしてきたわけではない。一例が1963年~1978年まで横浜市長を務めたの飛鳥田一雄。飛鳥田は社会党の政治家であり、当時全国各地に誕生した革新系(左派)首長の一人。革新系が首長を務める自治体を革新自治体と呼んだ。
4期15年に及んだ飛鳥田市政では、横浜の人口が急増していたことを踏まえ、300万人都市を目指した大開発である横浜六大事業が推進された。各事業は次の通り。
- 港北ニュータウンの建設
スプロール現象を抑え住宅を確保。 - 市営地下鉄の建設
輸送量の大きい市内交通の確保。 - 市内高速道路の建設
首都高神奈川線。一般道のバイパスとし渋滞を緩和する。 - 横浜ベイブリッジ
本牧埠頭と大黒・東京方面が直結。大型トラックはこちらへ。 - 金沢区に埋立地を建設し都心部の工場を移転
都心部を住宅や商業に特化。 - 三菱重工横浜工場跡地再開発
市街地分断を解消し、横浜駅~関内までを一体とする。みなとみらい21。
六大事業は概ね完了しており(グリーンラインは…延伸は…)、横浜市の皆さんが今でも他都市にドヤってこの横浜に勝るあらめやなのは、少なからず飛鳥田市政の成果の賜物でもある。
このように六大事業は今日の横浜を形作ったものであり、それを推進したのは社会党の市長であった。ただ当時の革新首長や戦後左派政治家の中では、飛鳥田のような人物は比較的珍しい方である。例えば飛鳥田と同時期の革新首長であった東京都の美濃部都知事は、高速道路にせよ空港の拡張にせよ、ともかく大規模開発の公共事業を片っ端から止めていた。
河野有理による考察
河野有理氏のツイート
「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」とは草も生えないほど辛辣な評だけど、真の問題はそれが本来刺さるべき方面にはあんまり刺さらないという現状じゃないかと。
2023-08-02 13:03:06「強力な福祉国家を実装運用するには効率的かつ機能的な統治機構と割と強烈なナショナリズムとが標準スペックとして必要になりますがいかがしましょうか」というのは本邦左派がなんとなく回避してきたテーマで、むしろそれらが供給されるのは前提でその行き過ぎを撃つみたいな構えだったわけです。
2023-08-02 13:12:13日本型福祉国家における家族主義批判でも、家族を超えた「ユニバーサルな福祉」という時、その「ユニバーサル」が具体的にはナショナリズムによって担保されることに本当に気づかない人と、気づかないふりをしてた人とがいたわけですね。
2023-08-02 13:20:48家族という中間団体がケアを担うことを批判するなら、それは結局、「配慮の単位」としての国家にコミットすることになるのかどうかというあたりを突き詰めて検討していた人は、管見の限り、本当に少なかった。
2023-08-02 13:24:59昨今流行りの自称アナーキストに対するある種の倫理的疑念(「結局、誰かが汗水垂らして維持してる秩序にただ乗りした上で不平不満を述べてるだけでは?」)を端的に表現していて本当に秀逸だと思います。「なんとなく社会福祉はあってほしいアナーキスト」。
2023-08-02 13:30:11もちろん、国家でも家族でも「おひとりさま」でもない相互扶助のかたちの模索もこれまた史上枚挙に暇がないわけですが、その場合ほぼもれなく宗教ないしそれに類似した強烈なイデオロギーがそうした紐帯を担保するものとして付いてくるということになりますのでねえ。
2023-08-02 13:39:30まとめ主考察 4 「家族と国家」
河野氏の話はゲマインシャフト(家族や地元のツレのような自然的集団)とゲゼルシャフト(企業や団体のような利益目的集団)という考え方を用いて考えると多少は分かりやすい。
家族と言うのはもちろんゲマインシャフトである。介護という負担の大きい人助けを家族がする、というのはゲマインシャフトだから。左派が主張するような、介護から個人をなるべく解放し、且つ被介護者となる者を見捨てないのであれば、国家・社会として介護事業を行っていく必要があり、これを支えるのは国家をゲマインシャフトとする考え方=ナショナリズムだろうというのが河野氏の主旨。
「は?そんなん金払えば良いだろ、ナショナリズムとか不要」と思う人もいるだろう。ゲゼルシャフトである個別の事業者や、そこで働く個々の介護従事者についていえば確かにそうだ。だがそのお金を出す社会の仕組みの構築や維持、労働力の供給等を考えた場合、国家をゲマインシャフトとするナショナリズム抜きでは無理ではないかということ。現役世代がただただ巻き上げられるだけでは離反もあるので、現役世代も潤いつつ、社会成員がその仕組みを維持していく合意していくにはナショナリズムが要ると。
では左派がそこを本気で考えていたかと言うと、そうではないだろう、というのがShin Hori氏の言を踏まえた河野氏の指摘。むしろ彼らは皮相的なきれいごとを言うだけで、どうやって大事な福祉を持続させるかの中核部分を考えず、「国なんてどうでも良いんだ」と言い続けてきた。それって結局は難しいことは考えず、真面目に働く他人の成果にタダ乗りする発想でしかなく、それを無言の前提としていたのではないか、ということである。
まとめ主考察 5 「宗教と福祉」
戦後左派の要望を全部受け入れたとしよう。福祉を充実させ誰も取りこぼさないが、国家とかナショナリズムとかキショいし、個人が大事に決まってるじゃん。ではナショナリズム以外にどんな考え方が福祉国家を担保しうるのか?。そこで登場するのが宗教、或いは宗教のような個人の倫理や価値観を規定する強力な主義思想となる。
今日的な意味での福祉は国家(行政)によるところが何処の国でも大であり、そこが十分にできないとアフリカやアメリカやベネズエラのようになってしまう。ただ歴史的にみると、例えばキリスト教の修道会が福祉の担い手となったり、イスラム教における施しなど、今日的な意味での国家が無い状況では宗教が福祉の担い手であり、またそうなるように人々の価値観や行動を規定していた。仏教の「徳」も似ているのではないだろうか。
何がゲマインシャフトとなる集団を形作るのか。家族や部族のような自然発生的なもの(オキシトシンの影響)か、宗教によるのか、ナショナリズムか。河野氏の左派への疑問や批判は、その辺の難しい部分を全部棚上げし、福祉という言葉の綺麗な部分だけ掬って味わう態度に対するものと言えるだろう。
宗教はそれを信じる者に信心による安寧や、或いは宗教を介した共同体を形成するといった正の効果も与える。彼らはそこまできちんと考えていたのか?。またそういったある種の宗教国家を、彼らは切実に想像していたのだろうか?と。