- kotosakikotoko
- 2104
- 22
- 0
- 0
松前氏の史料である新羅大明神御縁起に描かれた、戦国時代の蝦夷兵の恰好(ただ史料が書かれた時代は江戸初期で、その写本から)。特徴的な金属板が象嵌された矢筒や円錐状の兜など、かなり特徴を掴んでる描写と思う。 pic.twitter.com/lh30nxMrLf
2021-12-02 20:33:08『アイヌの表現は、右前に着付ける「アットゥシ」、宝器とされた鍬形「ペラウシトミカムイ」・漆器の椀・天目台、それに円錐形の笠や横向きに背負う靱負など、実際にアイヌに接して風俗を十分に観察していなければ描けないものである。詞書だけでなく挿画も松前景広の筆になるか。』って解説気になる。
2021-08-29 23:10:17蝦夷兵の兜と甲冑は、これに書かれたものに近かったんじゃないかと考えられる。 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… (250コマ目) pic.twitter.com/r57qMCe1dW
2021-12-02 20:43:33統一した武装をしていたとは考えない方が良いだろうし、むしろ多分身分やら何やらで装備はバラバラだったと思うけど、それはそれとして比較的統一した軍装の蝦夷兵は見てみたいですってあれ。
2022-06-25 23:58:32蝦夷の武装と言えば、季刊考古学第133号の特集にまんまそれに関する論考があってこれもマストバイ。もっと詳しく論文も出てる。 季刊考古学133号 アイヌの考古学 アイヌの武器・武具 関根達人・佐藤里穂 yuzankaku.co.jp/products/detai… 蝦夷刀の成立と変遷 cir.nii.ac.jp/crid/152000940…
2023-10-21 22:10:20あと最近出たアイヌの甲冑に関する論文とかも。今まで平安期の系譜をひくと考えられていたサハリンのアイヌ鎧に関して、各種の要素検討から、室町時代の15 世紀頃に奥州以北などで製作された事を指摘する論文。 サハリン発見「アイヌ鎧」の年代について cir.nii.ac.jp/crid/139057503…
2023-10-21 22:14:00これ面白いなぁと思うのは、奥州もしくは蝦夷地で、チュクチなど北東アジア民族が使う前合わせ形式と和鎧の、いわば文化折衷的な鎧が作成されていた可能性がある、という点だよなって。
2023-10-21 22:20:28そういえばこの蝦夷兵、ニンカリ(耳飾り)が三連になってる。結構珍しいと思うけど、こういう風に三連式のニンカリって発掘とかで見つかっていたりするのかしら。
2021-12-02 21:14:13発掘とかだと15世紀頃はΩ型のニンカリがメインで、その後輪っかとか下に玉飾りがつくものが形成されていたようだけど、連式のは無いのかな? hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/upl…
2021-12-02 21:47:17新羅大明神御縁起、上記の他にも蝦夷人を描いた絵があるのだけれども、いずれもニンカリは連式として描写されているな。これが描かれた当時の日本人のイメージとして、『蝦夷人は連式の耳飾りをつけている』という認識があった、と考えていいかしら。 pic.twitter.com/0MRyb560Ts
2021-12-02 22:15:01どの近世史料見ても蝦夷兵の装備として『毒矢』がセットで語られていて、ああこの頃の蝦夷兵のステロタイプとして機能してるなって面白みを感じる。
2020-03-10 00:00:25新羅之記録において描写される幾つかの蝦夷人の夜襲、潤色だろって割と軽く見る評価が多かったのだけれども、新藤透先生がこれトパットゥミだよねって指摘してたのはかなり新鮮だった。言われてみれば、蝦夷側の習慣・方法論として自然に解釈できるんだよなって。
2022-06-20 23:49:26蝦夷人が大名の指揮下で参戦した記録は結構あって、戸沢家譜だと文安元(1444)年に秋田城之介が蝦夷を引き連れ戸沢氏に侵攻した話とかがあるし、蠣崎(松前)慶広が蝦夷兵を連れて九戸の乱に参加したとか、氏郷記にも九戸側に蝦夷兵がいた事を記録している。他にも幾つか。
2017-11-20 20:16:28文安元(1444)年に湊安東勢が松前蝦夷を引き連れて戸沢寿盛と激闘したり、翌年も攻め込んできて松前伊勢と蠣崎美濃なる人物が戦死してたりする辺りは北方史ネタとしてもちょっと興味深い。誰だよってか実在したのかよ、っていうのもそうだし、道南の勢力が湊安東に率いられているあたりも。
2017-03-16 21:04:46奥羽永慶軍記だと、『松前志摩守(蠣崎慶広)』が九戸の乱の際に連れてきたアイヌ兵は300人とされているんだけれども、さすがに盛りすぎだよなぁ。ヘタすりゃ蠣崎氏の動員可能兵力全てアイヌ兵ってことになっちまう。
2014-06-05 13:54:38大坂の冬の陣に参加した南部軍の中に蝦夷人がいた、というのは司馬遼太郎とかで結構有名なネタだと思うけど、元ネタは南部家の歴史書である『祐清私記』で、その動員した理由ってのが兵士たちが命惜しさに暇を唱えて人不足になったから蝦夷を動員した、という締まらない感じで微笑ましい。
2017-11-20 20:04:37『大坂御出陣と申候故、諸士召仕共迷惑かり戦場へ供候へば命生不申物と存候得而、暇を願或は足之痛等申立候者多分有之由候。依之奥行之面々ヘは知行より役に申付召連候由。依之奥筋田名部辺よりは蝦夷共之内大分参り候由』
2017-11-20 20:06:11その頃の奥筋、下北半島には蝦夷人が集落を作っていて(所謂本州アイヌ)、北海道本島の蝦夷とも交流を保っていた。『則利直公は家康公の御催促に依而十一月の頃御登、其時田名部松前方より蝦夷を餘多召連れ登り玉ふ』という記述もある。これを信じるなら、松前の蝦夷も大坂陣に参戦していた事になる。
2017-11-20 20:10:16『則利直公は家康公の御催促に依而十一月の頃御登、其時田名部松前方より蝦夷を餘多召連れ登り玉ふ、軈て北上新山を御船に被召登玉へは、諸家中の妻子跡を慕て落涙止事なし、夫より上り玉へて海道へ趣玉へは、皆力を失へ帰りけり、軈て上方にも成、山城の国伏見之内茨木と云所に陣を張て後詰有、
2022-10-18 23:19:04大坂にて戦は夥敷共言は愚なり、数日を隔てし伏見迄鉄炮・石火矢の一音間近く聞けれは、利直公之被召連蝦共大に驚き後去に去程に、七八丁も去りけん備乱れけれは、桜庭安兵衛(安房ヵ)下知して本の備へ加るといへ共動もすれは後去に去んとす、誠に夷は武者と聞けれ共、鉄炮に驚きける程なれは常の人
2022-10-18 23:19:04下北だけでなく、例えば松前氏の城である上ノ国勝山館では蝦夷人の墓や骨角器が見つかっているし、ついこの前には三戸南部氏の居城である聖寿寺館でシロシ(蝦夷人が自分の器物等に付ける所有印)の入った皿なんかも見つかってて、北方の地における日本人とアイヌの関係は相応に深かったと考えられる。
2017-11-20 20:22:55安東氏のみならず、南部各氏と蝦夷人が主従関係を結び、軍事動員されていたんじゃないか、って論は最近そこそこ出ています。
2018-01-18 21:05:03