歴史系雑語り・津軽の忍者に関する取りとめない話

陸奥津軽地方(+α)の忍者に関する取り留めない話です。
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津軽為信と忍び

帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽為信、敵地や城へ潜入しての情報収集や火付け、盗人・博徒を味方につけてのかく乱、敵地への長期間潜入、逃亡者の殺害など、いわゆる『忍者』を最大限活用して勢力を拡大している武将なのがガッツリ史料から分かって面白い。小身の武士階級のみならず身分素性不確かな者たちも積極的に登用してる。

2022-12-25 21:59:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽制覇戦の最初期から出てくる忍者である小栗山左京と砂子瀬勘解由左衛門は『盗人』と明記される人物であるし、こういった人物を使って脛干(博徒など)を戦力化して濫暴を行わせるなど、この辺りの津軽為信のなりふり構わない姿勢って彼のダーティなイメージ形成に一役買っているなぁと。

2022-12-25 22:04:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽為信は、地生えの小領主の利益を擁護することで権力を築いていたと指摘されていて、身分の低い忍者の活用も含めて考えると、小勢力を丁寧に糾合する凄く泥臭い運営をしていたのだと推測できて、逆に言えばそうでもしなければ強固に君臨する南部家を打破できなかったという事だと思う。

2022-12-25 22:24:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽の忍者だと家老にまでなった服部長門守康成が有名だけれども、彼は大垣城の戦いにおいて雇われたとされていて活躍するのだけれども、それ以前の戦国期となるとどうか、というと、これが意外に知られていないよなぁ、などと。

2023-10-31 00:35:53
帆船ハッカ @kotosakikotoko

戦国期津軽における忍者についてまとめているのは『弘前市史 岩木地区通史編』で、近世に作成された津軽家臣団の由緒をまとめた『由緒書抜』という史料から、津軽において戦国期に忍び働きをした者たちの記述を抜き出して表にまとめている。

2023-10-31 00:39:41
帆船ハッカ @kotosakikotoko

また津軽の史書である『東日流記』とそれを参照して作られた『津軽一統志』では、小栗山左京と砂子瀬勘解由左衛門の活躍が特記されている。この二人なんかは東日流記では『忍者にハ小栗山の左京、砂子瀬勘解由左衛門、此両人ハ盗人にて御座候』と書かれ、その素性はかなり怪しげなものであったよう。

2023-10-31 00:43:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

小栗山左京はその名字から、平賀郡小栗山、また砂子瀬勘解由左衛門も目屋砂子瀬地区に所縁のある人物であると推測される。小栗山も砂子瀬も、天文年間の史料である津軽郡中名字に名前が出てくる地名。 で、小栗山は津軽の土豪である和徳讃岐守永春(小山内讃岐)の知行地であったとされる。

2023-10-31 00:46:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

和徳氏は大浦為信の挙兵に際して、石川城の後に滅ぼされている。この後、小栗山を含む和徳氏の所領は森岡信元に下されている。 小栗山左京が小栗山の知行主、という話もあるけど、敵地にある土地の苗字を冠してた事、盗人という左京の身分を勘案すると、おそらく小栗山左京は小栗山の知行主ではない。

2023-10-31 00:51:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

砂子瀬は、西目屋の砂子瀬地区で、ここには興味深い伝承があり、根深誠『世界遺産 白神山地』に、当地の庄屋の19代目の話として、『その昔、砂子瀬には日本海岸の岩崎港から来た海賊が館を立てて住みついた(中略)海賊の首領の名前は砂子瀬勘解由左衛門といったそうです』というもの。

2023-10-31 00:53:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

伝承が事実かはともかく、海賊として砂子瀬勘解由左衛門が語り継がれていたというのはとても興味深い。 ただ、この砂子瀬勘解由が大浦の笹森館を知行して笹森勘解由に改姓したとされるけど、由緒書抜や笹森氏の系図からみて上の伝承を含めて、多分勘解由というだけで話が混同しただと思う。

2023-10-31 01:04:12
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『戦国の忍び』まだ最初しか読んでないけど、悪党の類が忍者の出身母体であるなら、大浦為信が浪岡城攻撃に際して動員した『盗人博奕打のすねほし(脛干)の徒ものともを被召置候、忍のもの小栗山の左京・砂子瀬勘解由左衛門に被仰付~』(東日流記)も範疇に入るなぁとか思ったりした。

2020-09-13 14:12:32
帆船ハッカ @kotosakikotoko

大浦為信が浪岡近辺に住む脛干(盗人・博徒の集団)を手懐けて浪岡城を襲う算段を打ち明けるシーン、バンデットとか忍極の絵柄でやったらめっちゃ似合いそう。

2022-12-26 22:22:53
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽為信は忍者の小栗山左京や砂子瀬勘解由左衛門に命じて、浪岡に住む盗人博徒の脛干たちを10人ばかり大浦城に呼び寄せて彼らと博打に興じ、元々よく知らない博打なのでしたたかに負けて、脛干たちは銭銀を一斗ばかり背負って帰ることになった。 この出来事は他の博徒たちに伝わり、その後も10人20人

2022-12-26 22:37:20
帆船ハッカ @kotosakikotoko

と城に来るのを為信は歓迎し、彼らと遊ぶこと数度に及んだ。 その内脛干達も為信に親しむようになった頃合いに、為信はある城を攻め取ることを打ち明け、お前達は火をかける前に思うままに乱防すればいい、そうすれば得するぞ、と煽り立てた――というなかなか凄まじい逸話、濃い絵柄が似合いそうやん。

2022-12-26 22:37:20
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ちなみにこの脛干たちの話の出典は東日流記。その後に書かれた津軽一統志でも同じ話が載っているのだけれども、かなり潤色が濃くなっている。後になればなるほど話が盛られる典型だよなって。 東日流記 (1/3) kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/il/meta_pub/G0… 津軽一統志 巻第四 kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/il/meta_pub/G0…

2022-12-26 22:45:42
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽一統志に野伏の格好として『各尾花綴ノ厚サシ物』『クツサイ帽子』って恰好が出てくるのだけれども、どんな格好なのかしら。この本だと『これがその辺の男の服装だったとみられる』としているけど。 目屋ダム建設記念砂子瀬部落誌 dl.ndl.go.jp/pid/3013610/1/… #国立国会図書館デジタルコレクション

2022-12-22 22:19:38
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『脛干の徒』ってどういう意味やろ。黒脛巾といい忍は脛になんか特別な意味でもあるんかしら? 脛に傷持つとは言うけど。

2020-09-13 14:19:28

砂子瀬勘解由と笹森勘解由の混同

帆船ハッカ @kotosakikotoko

由緒書抜では、勘定奉行・笹森権蔵の項に、『御長柄奉行格勘定奉行・笹森勘解由』の一族としてある。 ここでは小野茶右衛門を討ち取った笹森勘解由の記述がある。 kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/il/meta_pub/G0…

2023-02-07 22:00:52
帆船ハッカ @kotosakikotoko

岩崎村史上巻のこのページには笹森勘解由建修の三男建永が笹森館にいると記述する。これは津軽弘前の笹森館かしら? だとしたら砂子瀬勘解由≠笹森勘解由になるねんけど。 dl.ndl.go.jp/pid/9540417/1/…

2023-02-07 22:16:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

由緒書抜の笹森氏の記述には、砂子瀬に繋がるような記述は無し。

2022-12-19 21:23:42
帆船ハッカ @kotosakikotoko

砂子瀬勘解由左衛門と笹森勘解由左衛門、繋がんなくない?

2022-12-19 21:23:48
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この系譜情報見る限り、やっぱり砂子瀬勘解由が軍功によって笹森の苗字を得て笹森勘解由と名乗った、というのはちょっと成立しないよなぁ……。

2023-02-07 22:08:21