渡邊教授(ynabe39)の「『倫理の罪』は裁くことができるのか、できるのは誰か、というのは永遠の問いなのだと思う」

心理学者・渡邊芳之先生の12月13日早朝のツイート。
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渡邊芳之 @ynabe39

「法律で禁じられていないかぎり何をしてもよいのか」という問いに対しては「そうではない」というしかないが,同時に「法律で禁じられていないことについて組織的に罰を与えること」については「できる限り避けるべきだ」と言わなければならない。

2011-12-13 05:22:59
渡邊芳之 @ynabe39

「法律で禁じられていなくてもしてはいけないことがあり,それはすべきでない」ということを「自分の行為基準とする」ことはとても大事なことだ。しかしそれを他者の行為に対しても求めること,あるいはそうしない他者に法律以外の方法で制裁を与えることはつねに「グレーゾーン」だと思う。

2011-12-13 05:25:41
渡邊芳之 @ynabe39

ある「倫理」にもとづいて自分が「倫理的」に行動することと,他者のその「倫理」をあてはめて「倫理的に行動することを求める」ことや「倫理的でない他者を制裁すること」は別のことだ。前者は基本的に常に正しいが,後者は必ずしもそうとは言えない。

2011-12-13 05:27:16
渡邊芳之 @ynabe39

典型的なものが宗教的な倫理で,たとえば宗教的理由である生物を殺さない人々がいるなら,彼らがそれを殺さないことは正しいし,彼らにそれを殺すことを強制してはいけない。しかし彼らが(同じ倫理を持たない)われわれにも「その生物を殺すな」「殺した者は制裁する」と言ってきたならどうか。

2011-12-13 05:29:30
HTCH2 @HTCH2

@ynabe39 グレーゾーンを埋めるところの言論、その言論を用いている自己の「身体」や「社会的位置」をも含めた、グレーゾーンとしての相互の身体・社会性を掴む言論が必要になりそうに思えます。言論自体が、身体や社会を区分けし認識している壁にもなっていれば。

2011-12-13 05:32:02
渡邊芳之 @ynabe39

@hitoha_chu2 そこで「グレーゾーンを埋める」とは結果としてどのようになることをイメージしていますか。私はそれが「法律に規定される」ことがないかぎりは永久にグレーゾーンで,問題が生じるごとに個人的なネゴシエーションの中で解決されるしかないと思います。

2011-12-13 05:34:15
渡邊芳之 @ynabe39

Wikipediaでは「犯罪(Crime)」は「一般には、法によって禁じられ刑罰が科される根拠となる事実・行為をいう」と定義されている。おそらくこれが一般的な考え方だと思う。問題はそれにあたらなくても「悪いこと」「やってはいけないこと」はあるということだ。

2011-12-13 05:40:42
@kumakiti2ch

その「形式的な法」と「法では扱えない実情」のグレーゾーンにあるであろう領域で、「なんとなくお互いが共有できる基盤」が構築できない、もしくはする気が無いなら、まぁだいたい殺し合いが起きますねw

2011-12-13 05:39:15
渡邊芳之 @ynabe39

@kumakiti2ch 「なんとなく共有」しかないですよね。「なんとなく」だから境界線ではつねにイザコザが起きるし,イザコザを減らそうとしたら法律にするしかなくなる。

2011-12-13 05:42:20
渡邊芳之 @ynabe39

それはあくまでも「なんとなく」だから,そこを「なんとなく犯す」ことでみんなに「なんとなく不快感を与える」人やものが頻繁に出てくる。しかしそれを社会がクリアカットで悪だとか悪でないとか決めることはできない。解決は個人的ネゴシエーションに任される。

2011-12-13 05:46:40
渡邊芳之 @ynabe39

しかしこの「個人的ネゴシエーションに任される」ことへの恐怖感とか「すごい面倒くささ感」みたいなものも広く共有されていて,「法律でなんとかしてほしい」「国で基準を決めてほしい」という声が常にあがる。

2011-12-13 05:48:24
渡邊芳之 @ynabe39

まえに表現の自由について話したときも,私が「最後は表現者とそれに不快を感じる者とが個人的にネゴシエーションするしかない」と書いたことには非常に大きな反発があった。もちろんそこには今日の昼に考えたような「表現者と被害者の資源の非対称性」の問題がある。

2011-12-13 05:50:53
@kumakiti2ch

@ynabe39 数百年掛けて先人が血と鉄と利害で作り上げてきた「なんとなく共有」の相互信頼の基盤を、理で裁断してブチ壊してきたんだから、自業自得だと思わなくもないですがね。

2011-12-13 05:51:26
渡邊芳之 @ynabe39

@kumakiti2ch 問題はその「自業自得」の「自」は誰かということです。じっさいに被害を受けているのは必ずしも「理で裁断した人」ではないんじゃないかと。

2011-12-13 05:52:24
渡邊芳之 @ynabe39

表現にしても言論にしても,「発信者の特権性」というのはあるのだろう。自分の考えや感情を絵や言葉や音楽で「表現する」スキルを持っている人の向こう側には無数の「そのスキルを持たない人々」がいるわけだから。「俺のマンガに文句があるならお前が違うマンガを描け」といわれても私も困る。

2011-12-13 05:56:55
渡邊芳之 @ynabe39

「言論の自由があるからといって何をいいわけではない」というのは現実的にそのとおりなのだが,いっぽうで「では何を言ったらいけないのか」を「決める」ことは難しい。

2011-12-13 06:01:29
渡邊芳之 @ynabe39

「倫理の罪」を裁くことができるのか,できるのは誰か,というのは永遠の問いなのだと思う。

2011-12-13 06:04:12
渡邊芳之 @ynabe39

まあどちらでも「それはそれでそうだ」としか言いようがないのだけれど。

2011-12-13 06:05:46
渡邊芳之 @ynabe39

なるほど「言論は言論で」というのが「俺のピアノ演奏に文句をいうのは自分もピアノが弾けるようになってからにしろ」というのと同じように聞こえる場合があるのか。

2011-12-13 06:11:23
渡邊芳之 @ynabe39

なるほど「個人的なネゴシエーション」がどういう結果になるかにはいろいろな非対称性がもろに影響するもんなあ。

2011-12-13 06:12:33
渡邊芳之 @ynabe39

「文句をいうのは自分もやってからにしろ」を表現者が聴衆や「消費者」に対して言い出すと収拾はつかなくなるわなあ。

2011-12-13 06:21:06
渡邊芳之 @ynabe39

ただ多くの場合,表現者と「聴衆」とのスキルの非対称は「聴衆は金を払う客である」という別の非対称で埋め合わされる。「俺のマンガに文句があるならマンガを描いてから言え」というのは自由だが「お客」が「じゃあお前のマンガなど買ってやらねえ」といえばマンガ家はアウトである。

2011-12-13 07:21:27
渡邊芳之 @ynabe39

ところが学問にはそういう構造は少なくとも明示的には存在しない。「学問の世界」というのは「学者を評価するのは学者だけ」が基本になっている。「学問の顧客は誰か」というのは難しい問題だ。

2011-12-13 07:22:58
渡邊芳之 @ynabe39

もちろんとくに国公立の大学等に勤める学者にとって学問の「出資者」が国民であることは明確だ。しかし国民は学問に対してマンガや音楽のように「買うか買わないか」による直接のコントロールを及ぼすことができない。「研究の良し悪し」は学者同士の相互評価によってしか行われない。

2011-12-13 07:25:16
渡邊芳之 @ynabe39

大学の「学生」はどうか。学生は教員である学者の「授業」や「教育」に対しては「それなら授業を履修してやらねえ」「そんな大学いってやらねえ」というコントロールを及ぼすことができる。しかしそれが「相当に限定されたコントロール」であるのも確かだ。

2011-12-13 07:27:27