関ヶ原戦役における小早川秀秋の存在

小早川秀秋って悪名ばかり残っているけど実際のところどうだったのよ、的な話。 (Togetterのまとめをしたことがなかったので編集テストも兼ねて)
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涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

@rena_mikagura 小早川秀秋も可哀相というか同情できるところはあるんですけどね。

2011-12-18 22:52:04
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涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

@rena_mikagura 小早川秀秋が松尾山を奪ったことで西軍の大垣決戦が不可能、関が原決戦となったので、本来それだけでも功績なんですけどね。時間かかれば秀頼ご出陣も有り得たわけで。ただ不幸なことに小早川軍前面の脇坂ら諸将の東軍への内応を知らなかった故に戦機を失してしまった。

2011-12-19 16:41:33
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

小早川秀秋が伊勢攻略を西軍から求められながらそれを放棄して北進し、松尾山の西軍伊藤氏を追い出して占拠した時点で西軍サイドの小早川秀秋裏切りは最早灰色どころか真っ黒だったろう。だからこそ大谷勢などの一番信頼できる兵力を最右翼に回して小早川裏切りに備えた。

2011-12-19 17:00:24
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

西軍の脇坂ら裏切り諸将はさらに大谷勢らよりも右翼にいたわけだが、これはどこまでその裏切りを予想していたかはわからない。少なくとも笹尾山方面の決戦正面に対して、内応諸将は概ね正面から外れる位置にいた。これは戦線正面が内応によって直接崩壊する危険を避けたためだろう。

2011-12-19 17:03:27
チハ@麒麟が去った @kono_chiha

そしたら、鉄砲をいかけたってのは、、、それだけ優柔不断だったのか?それとも後世の脚色? RT @sionsuzukaze 西軍サイドの小早川秀秋裏切りは最早灰色どころか真っ黒だったろう。

2011-12-19 17:04:37
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

@kono_chiha 少なくとも家康の陣から小早川陣までは距離がありすぎて鉄砲を撃ちかけるのは不可能ですし、両陣の間に内応確定の武将が複数陣を張っていたことから考えても、後世の俗説として否定して差し支えないと思います。

2011-12-19 17:06:01
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

脇坂らの裏切りを知らない小早川勢としては、主戦場方面に戦端を開くと脇坂らがちょうど側面を脅かす形となり、慎重にならざるを得ない。実際東軍として主戦場方面に参戦後、数では圧倒的に劣勢のはずの大谷勢に対して当初は苦戦していて、脇坂らの裏切り後に大谷勢を壊走させる経緯を辿っている。

2011-12-19 17:10:42
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

これは側面を脅かす敵(西軍)が実は味方(内応軍)であることが確認されたため、全力投入が可能になったからではないか?そう考える方がしっくりくる。問題は、このタイミングって西軍の主戦場である石田諸将の笹尾山方面が崩壊しつつある時期になかり、結果として敗軍を追うのが主となった点。

2011-12-19 17:12:33
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

家康としては、西軍の大垣方面での決戦構想が呆気なく放棄され、関が原方面へと主戦場が移った時点で、強固な野戦陣地への強襲という時間がかかる決戦ではなくなり、徳川主力となる秀忠隊が間に合わないことが確定。それにより「徳川軍主力による決定的勝利」が不可能になった。

2011-12-19 17:14:19
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

つまり、自軍本体が不在のままの決戦となり、戦後を考えると非常に微妙な決戦となったわけだ。東軍としての諸将の力「のみ」で勝ったとなると、「決戦で徳川軍はいなくても良かった」ことになりかねず、政治的には非常に大きな失点。本来時間がかかる大垣決戦が回避されたことが、逆の効果でもあった。

2011-12-19 17:16:08
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

大垣決戦で徳川主力を率いての勝利であれば、文句なく家康の覇権。ただし毛利本体や秀頼出陣のリスクがあった。そのリスクがなくなった反面、徳川主力を投入することはできなくなった。結果として論功においては諸将に対し、半ば厳しく当たる必要も出てきた。

2011-12-19 17:17:53
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

秀秋自身は小早川家33万石の領地が関が原戦役後に50万石となっているが、一歩間違えれば西軍の大垣決戦構想を完全に破綻させた小早川の裏切りというのが、徳川幕府の諸大名に対する決定的優位を確立する上で、結果として非常に微妙な行為になった、とは言えると思う。

2011-12-19 17:20:03
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

もともと慶長の役での失態などもあり、小早川秀秋自身の将としての資質は以前から疑問が呈されていたことに加えて、これらの関が原戦役における徳川家の覇権に対する微妙極まりない行動を取ったことが、後世の悪評を促進する結果になったのではないか、とは思う。

2011-12-19 17:21:18
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

家康が毛利輝元の出陣がほぼ無いであろうことを吉川家経由で把握していたとはいえ、秀頼の出陣があれば東軍側豊臣諸将の離反を招きかねず、その意味では大垣決戦は秀頼の出陣を招く時間というリスクはある反面、より大坂から遠い、という地の利もあり、西軍の大垣決戦構想に乗りたかったのではないか?

2011-12-19 17:27:55

※補足
家康自身、輝元・秀頼らの出陣はほぼないであろうことは把握済みだったと思われるが、時間がかかればかかるほど政治工作によりそれらの状況が覆る可能性はあったので、これは一つのリスク要因ではある。
実際、吉川ら内部の不統一により毛利本体の出陣はなかったものの、大坂上に総大将として詰めるところまで毛利の担ぎ出しに成功したのは三成の政治工作の成果ではあるし、輝元はまだしも秀頼の戦場への出陣があった場合、東軍側の豊臣系諸将の離反を招くことは極めて高い可能性であったわけで、決戦にあまりに時間をかけすぎるわけにもいかなかった。
家康としては、敵よりも圧倒的に優位な兵力での一度の決戦で勝つ、ということが重要で、均衡した兵力での長期戦は避けたかったところだろう。
濃尾方面での決戦というのはその意味でも重要だったと思われる。城攻めとなれば時間もかかるが、徳川本体の来着があれば圧倒的には兵力優位となるし、そもそも徳川本体が不在の場合、西軍との兵力は拮抗する。
現実には西軍主力となるはずの島津勢が動かないなど、敵方の足並みの乱れで呆気なく西軍崩壊となったのは僥倖ではあったが、西軍諸将が全力で対抗した場合、必ずしも現実のように1日で決着がつくとは考えていなかったのではないだろうか?

涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

少なくとも家康自身が三成ら西軍の動きを、その規模は別としてある程度把握していたであろうことは想像に難くなく、その意味で西軍が濃尾方面での決戦をしていたことは承知していたであろう。三成自身最初は三河方面で家康を迎撃するようなことを嘯いていたわけで。

2011-12-19 17:32:20
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

そう考えると、濃尾方面での「豊臣系諸将」による東軍で西軍の主力を拘引し、迂回した徳川主力(秀忠隊)が側背から西軍を襲う、という理想的挟撃体制が整ったはずで、その意味でも秀忠遅参ってのも可哀相な話ではあって、それもこれも「小早川秀秋が悪い」と言ってしまえば言えるわけだ。

2011-12-19 17:33:59
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

松尾山の重要性というのは、その地勢上伊勢街道と中山道という2つの大街道を抑えることができる点からも明らかで、だからこそ西軍も伊藤氏をして同地の陣地修繕にあたらせていたはず。小早川らの動向が不信であれば尚、伊勢方面に動員した小早川勢を抑えるためにも西軍は同地を把握する必要があった。

2011-12-19 17:37:03
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

それがよりにもよってその小早川自身によって奪取されたのだから、三成も慌てたろうが、小早川秀秋の行動というのはそれだけ東西両軍にとって「当初の構想を破綻させる」だけの行動となったわけで、内応という行為に加えて両軍から理解も共感もされない行動になったわけだから、まぁ悲劇ではある。

2011-12-19 17:38:25
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

小早川秀秋がそれとして松尾山を押さえるのであれば、徳川主力がもう少し接近してからであるべきだったし、そうすれば西軍主力を3方面から挟撃する(しかも濃尾方面から北へは逃げようがない)という理想的包囲殲滅戦になったはずなのだが、そういったことは頭になかったのだろう。

2011-12-19 17:40:40
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

もちろん伊勢方面からの反転が遅くなればそれだけ松尾山の築城陣地はより強固になったろうが、それでもなお伊勢方面で遅滞戦術をとって時間を稼ぐべきだったろう。少なくとも松尾山に西軍主力が配されることはなかったはずで、攻囲して2街道を抑えるだけでも十分な功績なのだから。

2011-12-19 17:42:27
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze

とまぁどう考えてみても、俗説を排除してみても、結果として「小早川秀秋って無能じゃね?」ってことに変わりはないあたり、可哀相な人。慶長の役の際、12万石への領国削減が検討されたが、それを取り成して庇ったのが家康であるあたり皮肉。減俸されてればあそこまで酷い評価にならなかったろうに。

2011-12-19 17:47:21

※補足
領国削減は、慶長の役の際一軍の総大将として出陣しながら、嬉々として最前線で敵の首を上げて意気揚々となった秀秋に対し、軽率に過ぎる(つまり大将のやることではない)、として秀吉が激怒し、国内召還となった件に起因する。
実際は家康の取り成しでこの案は実行されなかったが、秀秋自身はこれを三成の讒言により自身の功績を貶めたもの、として三成を逆恨みしたと言われ、このあたりの認識の甘さも秀秋の資質に疑問が附される要因でもある。