- sionsuzukaze
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@rena_mikagura まぁ三成からしたら最初から疑ってた節もあり、中立化してくれれば御の字、だったのかもしれませんね、確かに。
2011-12-20 17:06:01@rena_mikagura まぁ確かに与えられたものであることは確かですね。33万石も小早川隆景の遺領だし。迷った可能性は確かに否めない、か。しかし当時の19とか20って早い場合は大将か大名そのものですけどね。欲ばった可能性はあるか。それ疑われると汚名は晴らしようがないw
2011-12-20 17:12:35【余談】
実際に動員された兵力っていかほど?という話
@rena_mikagura 通説の15000に対して、石田三成から真田宛に出された書状では小早川勢は8000と記載されているんですよね。人数を過大に知らせて優位を見せる法則でいくと、さらに少なかった可能性もあると思います。実際は6~8000といったところではないでしょうか?
2011-12-20 16:29:37@rena_mikagura 同書状によると、大谷勢1200、以下内応側の小川2500、朽木1200、脇坂・赤座は記載なし、のようです。脇坂・赤座が1000、500とざっくり計算すると、小早川隊側面の内応勢って総勢で5000を超えるんですよね。大谷勢足して6000強。
2011-12-20 16:40:05@rena_mikagura そんなわけで、実は正面兵力差はそれほどなかった可能性があります。そして藤堂らの東軍側が脇坂以下の内応を知っていれば、まともに仕掛けるわけもなく、内応軍は上から見下ろす小早川勢としては相当不気味だったのではないでしょうか?
2011-12-20 16:41:54@rena_mikagura 石田の真田宛書状は8月初旬の状況を記載したもののようですので、西軍側の動員は概ね完了しつつあった頃かと思います(少なくとも7月中旬までは大坂での召抱えなどで宇喜多等が補充を行っています)。まぁここから増える可能性は十分ありますが。
2011-12-20 16:47:06@rena_mikagura そうですね。藤堂隊らが脇坂らにあまり真剣にあたっていなかったとすると、小早川陣からはそれらが遊軍になっている状況は見てとれたはずで、そうなると仮に8000の小早川隊に対して5000の敵(西軍)が側面に布陣している状況になるので。
2011-12-20 16:48:59しかしまぁ小早川がそんなで吉川広家は完全に内通者と化し、輝元自身はそれほどやる気もなく。そんな毛利勢を決戦の後詰に使おうと考えた石田三成が甘いっちゃ甘いのか。後詰どころか内応・内通者だらけ。唯一の味方は安国寺という・・・これは戦力にはならんw
2011-12-20 17:00:30