- sionsuzukaze
- 11861
- 0
- 0
- 0
小早川秀秋としては、「実は裏切りってのは嘘だったんですよ」とやって、徳川旗本衆に襲い掛かって、家康の首を上げる、てのが理想的だったのかなぁ、とは思わないでもないけど、どっちにしても悪名しか残らないのだろうし、上坂した時点で詰みなあたり、無能な働き者の限界、か。
2011-12-19 18:03:34可哀想といえば可哀想ですよね>小早川秀秋。まだ坊やなのに、相手は古狸の家康や、能吏の三成。アチラを立てればこちらが立たず。 @sionsuzukaze
2011-12-19 19:44:41@kono_chiha まぁねぇ。とはいえ大名には向いていなかったのは確かっぽいですが(苦笑)
2011-12-19 19:45:25@kono_chiha たぶん言われた通りに戦場で戦って首を上げる、という猪武者的存在であれば、名は残らないまでもここまで酷いことにはなっていなかったかと。
2011-12-19 19:48:20戦国可哀相な過小評価筆頭は今川氏真か北条氏政か、というあたりで、まぁ小早川秀秋はどうがんばってもそこには並ばないあたり、小者感が否めない。
2011-12-19 19:56:21【参考図】
関ヶ原戦役全体の動き~当日の小早川秀秋布陣状況
@rena_mikagura 迷うことなく西軍を襲う、というのは状況的には少し厳しかったように思えます。トギャッターに追加した図Eの理由によります。ただし、後世評価には家康が徹頭徹尾秀秋の内応を信じなかった、というのはあるかもしれません。少なくとも8月中に二度打診があったのに。
2011-12-20 16:12:13@rena_mikagura 奥平貞治の死が一因になっている可能性は否めませんが、北政所の兄の子であり、輝元(形式上西軍総大将)の養女を妻としながら、吉川広家のように毛利本家を擁護するでもなかった行動や、参戦時期が小賢しかった、というのもあるかもしれません。
2011-12-20 16:16:52@rena_mikagura 大谷勢の小早川に対する備えは、藤堂他正面での戦闘で少しずつ引き抜かれた節がありますね。まぁその分小早川には利が増えたわけですが。タイミング的に脇坂らが小早川裏切り直後に内応しているので、最初その動きを自陣への動きと誤解した可能性もあるかと。
2011-12-20 16:32:30@rena_mikagura そもそも松尾山の西軍側伊藤盛正を追い出して占拠した時点で東軍確定の行動ではあるのですが、小早川自身がどう考えたにしろ、それを配下の諸将に徹底していなかった可能性は高いかもしれません。動きの鈍さはそれも要因の一つかも。
2011-12-20 16:44:25@rena_mikagura 実際に松尾山占拠の後にも西軍側から関白職や大幅な加増を提示されていますし、動揺した可能性もありますが、慶長の役の経緯から考えると、秀秋の性格上三成に組するというのも考えづらいかも。内応の使者が家康に相手にされなくても立派に東軍側の行動だったわけで。
2011-12-20 16:54:19@rena_mikagura むしろ秀頼がいるのにそんな職を提示されたら、「バカにしてんじゃね?」ってのが正直な反応かとw
2011-12-20 17:04:00