下伊那・瑠璃寺展図録から読み解く、武田信玄と天台宗の関わり。

5
日光81 @nikko81_fsi

信玄公関連で収穫あり。こんなとこで比叡山と信玄公との関わりを示す文書があるなんて思わねえじゃん。びっくりした…一昨年から追いかけている比叡山との関わりを考えるについて大事だわ。なんで気づかなかったのだろう。遺文の掲載有無も確認だ。 pic.twitter.com/P2APaFuKnI

2024-03-16 15:59:36
拡大
日光81 @nikko81_fsi

下伊那の瑠璃寺の企画展図録を確認。戦国遺文武田氏編の2121号文書だった。年不詳で年代比定されておらず、信玄死去の天正元年あたりにまとめられていた中にあった。図録では永禄六年と年代比定しており、なるほど、と思わせられた。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-28 18:49:51
日光81 @nikko81_fsi

条目 一、就御下向者、来六月法会以前ニ帰山、可任御存分之事、一、四度加行未熟之所、御指南所仰候、其外毗沙門金輪大威徳等之法、相伝可申候間、不可有御疎略之事、一、伊奈郡瑠璃寺領、如前々令寄附貴院江、可進置之事、一、此已前輝虎祈念、更ニ不存遺恨候事、一、就御下向者、涯分悃切可申之事、 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-28 18:53:06
日光81 @nikko81_fsi

已上 十二月廿四日 信玄(花押)正覚坊 机下 追而、有無首尾之旨者、不可有其曲候

2024-03-28 18:53:48
日光81 @nikko81_fsi

図録の年代比定の根拠として、正覚院重盛が永禄六年、上杉輝虎から武運長久、つまり信玄と北条氏康の呪詛を依頼され、これに信濃に末寺を持つ影響を鑑み、反故にしたことがわかる文書を挙げ、条目にある「此已前輝虎祈念、更ニ不存遺恨候事」をこの事象だと理解し、永禄六年に近い時期の文書と比定。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-28 18:58:23
日光81 @nikko81_fsi

信濃史料にあるこの文書でしょう。adeac.jp/npmh/viewer/mp…

2024-03-28 18:59:11
日光81 @nikko81_fsi

仮にこの条目が永禄六年だとすると、個人的にはすごく興味を引くことになる。伝わった瑠璃寺としては、この条目は信玄から瑠璃寺の寺領を安堵されているので、その文脈で重要なのだろうが、個人的には、他の項目のほうが重要。この正覚坊の下向とその目的が明確に書かれてある。そして正覚坊とは。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-28 19:02:07
日光81 @nikko81_fsi

正覚坊は先の上杉氏文書を参照すると、重盛と考えられ、「正覚坊」とは比叡山の塔頭・正覚院を指し、東塔東谷において、灌頂という天台密教における重要な儀式を行う場。曼殊院文書「加田備後宛西楽院豪圓申状」によれば、、、

2024-03-28 19:07:40
日光81 @nikko81_fsi

「正覚院まへの名乗者、重盛ニ而候(中略)其時西山豪と申付而豪盛二成被申候」とあり、重盛が豪盛と同一人物であることが判る。この豪盛、比叡山焼討ちの際、甲斐に逃れているらしく、そこで天海(当時は随風)とも甲府で出会っているらしいことが、天海の伝記で判る。

2024-03-28 19:13:36
日光81 @nikko81_fsi

今まで文書では正覚院豪盛と信玄の関わりを知らなかったので、天台宗、特に比叡山と信玄の関わりに関心を持っているとびっくり。この豪盛、甲斐に逃れる前は、京愛宕山の白雲寺威徳院に潜んでいたらしく、ここも信玄の祈祷返礼の文書がある寺院(戦武637)なんですな。ここも比叡山とつながったか…

2024-03-28 19:17:16
日光81 @nikko81_fsi

興味を引くのは、この正覚院重盛(当時)が永禄六年段階ですでに比叡山から下向していること、その下向して帰る時期に信玄が配慮していたり、その下向に非常に懇切丁寧に対応している。それはなぜか…

2024-03-28 19:20:45
日光81 @nikko81_fsi

「四度加行未熟之所、御指南所仰候、其外毗沙門・金輪大威徳等之法、相伝可申候間、不可有御疎略之事」とあるように天台密教の加行について、教えを請うているから。加行を灌頂の前段階として行われる修行と解すれば、永禄六年段階で天台宗に接近し、灌頂を受けることを志向していたと読み取りうる。

2024-03-28 19:23:19
日光81 @nikko81_fsi

信玄と天台宗、どうしても元亀に入ってから、覚恕が天台座主に就いてからの接近を想起するのだけど、永禄12年(戦武1471)にもあるように、もう少し前からその兆候があり、元亀に入ると、権僧正に任じられるだけでなく、元亀2年(戦武1754)、元亀3年(戦武1921、1928)にも類推させる内容がある。

2024-03-28 19:29:05
日光81 @nikko81_fsi

これらの文書では「下向」を求め、「天台之化行」を学ぶことを志向し、駿府に「以叡山門派之出家、可為住持」ことを企図するなど、天台密教を会得したいという、信玄の主体的な姿勢を強く感じる。それが、戦武2121が永禄6年だとすれば、この段階ですでにその志向があったことになる。

2024-03-28 19:31:53
日光81 @nikko81_fsi

永禄6年だと駿河侵攻前だし、信長が上洛する前だし、義信事件も起こっていない、第四次川中島の少し後。甲陽軍鑑品第四で元々は武田家は天台宗だったという認識は示しているものの、信玄個人としては臨済宗妙心寺派に執心だったはず。この天台宗への接近にどんな意図があるのか、すごく気になるのだ。

2024-03-28 19:34:20
日光81 @nikko81_fsi

豪盛ともこの段階から関わっていたとすると、元亀元年になって急に覚恕に接近したわけでは無く、豪盛を通じ、あるいは関東天台ルートを通じ、覚恕の天台座主就任以前から、信玄も覚恕もお互い認識はいていた可能性もあって、急に猿図を贈ったわけではないんだな…と想像する。

2024-03-28 19:37:11
日光81 @nikko81_fsi

この天台密教への執心ぶりと関わりのあった豪盛が、甲府に逃れてきていることを念頭に置くと、久遠寺を身延山から退かしてでも甲斐に叡山を再興する発想につながるのは理解できる。あとは臨済宗妙心寺派を除けば、ここまで主体的に関わっている印象を受ける宗派はなくて。

2024-03-28 19:42:34
日光81 @nikko81_fsi

甲州法度之次第にあるように、法論をしさえしなければ、武田領国では宗派を問わず保護はされているけど、積極的に関わらないし、畿内各寺社への祈祷返礼文書をみても、勧進には対応するけど宗派そのものへは深く立ち入らない、いわば受動的な関わりという印象があるなか、天台宗が異質に思えて。

2024-03-28 19:45:01
日光81 @nikko81_fsi

文書そのものは見れないかも知れないけど、瑠璃寺行かないとな…図録見る限り、保存状態はよさそうな感じ。その他、由緒を伝える寺伝によれば、永禄元亀に豪盛がきて兼帯し、信玄の祈願所となったと伝えている。ただ、下伊那を武田が制圧したのは天文23~24年。少し時間的に隔たりがある。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-28 19:58:30
日光81 @nikko81_fsi

信玄の天台宗への接近に、この瑠璃寺住持を重盛(豪盛)が兼帯したことが何か関係しているのかも知れないな。あと永禄六~七年の政治史との対比。当時、西上野や飛騨方面の戦線に忙しく、また遠州では遠州忩劇が始まったあたり。こうした状況が天台宗との関わりに何か影響するのか…果たして…

2024-03-28 20:03:06