さて本多平八郎殿のお誕生日だそうで、彼の話でもしようかと思ってきたんですけど、何がいいでしょうねぇ。こう、格好良い話は多いんですけど、だいたい有名ですしねぇ。
2012-02-08 16:23:57弟と平八郎殿は同年の生まれで、生まれた場所もそんなに離れていないのですが、間に矢作川がはさまってますから、幼少の頃は行き来はなかったですね。平八郎殿…というより、その母上の小夜さまは有名でしたが。
2012-02-08 16:36:00安祥城攻めにて本多忠高殿が討ち死になされたあと、小夜さまはおひとりで平八郎殿をお育てになられた。当時は三河の衆にとってはつらい時期でしたから、さぞやご苦労なさったことと思います。当時から本多の後家と噂話にあがるぐらいだったんですよ。
2012-02-08 16:40:13二人が最初に会ったのは、大樹寺だったと聞いています。13才の時ですね。桶狭間の戦いの後、家康公が岡崎に戻られた時、岡崎城ではなく大樹寺に一旦入られました。実はこの直前に上野も通られているので、父はそのことを知っていたかもしれませんね。
2012-02-08 16:44:30この時平八郎殿は初陣をはたした直後で、家康公に従い大樹寺に至りました。で、うちの弟も当時大樹寺で学んでおり、ここで家康公に見初められて小姓になったんですね。だから弟は家康公と平八郎殿とは同時に知り合ったことになります。
2012-02-08 16:47:44その時家康公に従っていたものは全部で18人と聞き及んでおりますが、少人数なのは大高城よりの移動に少人数のほうが良かったことと、地元故に家康公がお帰しになられたのでしょう。また、当初先祖の墓の前でご自害なされるおつもりであったとも伝わりますので、戦う気がない故の人数ともいえます。
2012-02-08 16:53:15さてその後、家康公の小姓となった弟ですが、すぐに平八郎殿とは親しくなったようです。同年ということもありますが、その頃はまだ岡崎城に出入りする幼少者は少なかったでしょうしね。
2012-02-08 17:04:58私はその頃まだ上野につめておりましたので、よく知らないんですよね。弟の初陣の時も平八郎殿と一緒に出たんですよ、別隊でしたけど。それから吉田城攻めで先手として先鋒に加わってから、吉例とか言われて何かと先鋒に出ることが多くなったんですが、大抵は平八郎殿も一緒でしたねぇ。
2012-02-08 17:15:15まぁ、旗本先手組の同僚ですから、ある意味当たり前なんですが、家康公がふたりが仲が良いのを見てわざとそうやって配置したのかもしれません。結局関東入りするまで二人とも旗本先手のままでしたしね。
2012-02-08 17:18:46弟は、家康公や平八郎殿などとやりとりした文はあんまり残っていないのですが、これはたぶん全部口頭ですませていたからだと思います(笑)
2012-02-08 17:24:04ずっと城住みでしたしね。岡崎、浜松、駿府と家康公が拠点を移されても、旗本先手はいつでも動けるように城に常駐でしたから。たまに戦略的に砦を任されることはあっても、そんなに長期間ではなく。
2012-02-08 17:26:34同じく先手組だった大久保忠世殿のご子息、新十郎忠隣殿なんかとは弟は仲が良くてですね。大久保と親戚にならなかったのが不思議なくらいですけど……あ、関係ない話でした。
2012-02-08 17:33:02事故ですね。本当に。 RT @tsuneoki1536 不可抗力だな RT @sakaki_koheita: 稲富殿が面白すぎて、話の内容忘れました。
2012-02-08 17:43:06あーそうそう、ふたりで兵に剣や槍の鍛錬をすることも多かったんですが、平八郎殿は教練のほうはとんと得意でなく。実戦向きだったんですね。戦場ではどうかわかりませんが、普段の立ち会いでは弟のほうが勝っていた印象があります。蜻蛉切りは長すぎて馬上でないと中々。
2012-02-08 17:51:43あ、では時間もないのでお話はこれぐらいで。あんまり目新しい話でもなくてすいません。ちょっと稲富殿にやらましてごっざいます。
2012-02-08 18:00:07