ゲーム、認識、見立て ― ゲームはいかにして世界の中で見出されるか?―

我々、人間にとってゲームとは何か? そして、世界の中に、ゲームを見出し得るのは何か、問いを軸に、意見を戦わせます。三者三様の複数の知見が披露され、貴重な議論となりましたので、ここまとめておきます。
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三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

デジタル空間において、完全なるシミュレーションは、ゲームに限りなく近づく。これは、是か、非か?

2010-06-17 03:19:47
totobook @totobook2

個人的に、そんなゲームを作りたいかといわれれば是。遊びたいかといわれれば非 QT @miyayou: デジタル空間において、完全なるシミュレーションは、ゲームに限りなく近づく。これは、是か、非か?

2010-06-17 03:28:01
totobook @totobook2

ん、ゲームに近づくという事実そのものが是が非ってことだったのかな

2010-06-17 03:32:35
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

わかりにくくて、すいません。そういうことです。つまり、プロシージャルな世界は、何処までゲームなのか、それとも、シミュレーションなのか? RT @totobook2 ん、ゲームに近づくという事実そのものが是が非ってことだったのかな

2010-06-17 03:33:51
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

これだけ素材を提供しているのだから世の哲学者たちはゲームを使ってもっとアクロバティックな思考を展開して見せよ。哲学者にとってゲーム自身は問題ではない。君たちが織り成す文脈とテクスチャア全体の中で、ゲームが持つ接続と加速の効果を最大限利用しつつ新しい真実に辿りつく事だけが大切なんだ

2010-06-17 03:43:48
totobook @totobook2

@miyayou だとしたら、そこのシュミレーションを観察・干渉している対象が、その世界に何らかのホビーを見出しているのだとしたら、是。見出せないのであれば非、だと思います

2010-06-17 03:44:34
totobook @totobook2

川に落ちた葉っぱを子供たちが見つけて、沈まずに流れていくかをどきどきしながら見つめる。そして沈んだら悲鳴をあげ、みえなくなるまで流れていけば歓声を上げる。自然の現象がただ目の前にあるだけだけど、きっと彼らには「沈まずに葉っぱが流れることができるかどうか」がゲームとして成立してる

2010-06-17 03:47:04
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

ありがとう。では、ゲームのリアリティの中には、あらゆる完全なシミュレーションをもってしても与えることが出来ないリアリティーがあるのだろうか? RT @totobook2

2010-06-17 03:47:28
totobook @totobook2

それは、その場がゲームとして用意されているか否かなんていうのは関係が無い

2010-06-17 03:47:33
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

とすれば、ゲームというものは、何処までがユーザーが作り出すものだろうか?何処までが世界が作り出すものだろうか? そして、なぜ、ユーザーはそこにゲームを見出すことが可能なのか? RT  @totobook2

2010-06-17 03:49:56
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

ありがとう。川の葉の議論はとても良い議論です。憶えておきます。^^ RT @totobook2

2010-06-17 03:50:50
totobook @totobook2

@miyayou まったくもって根拠なんてないのですが、歌舞伎などの「見立て」のようなものを、人間は世界の全てに対して本能的に行っているんじゃないでしょうか。だからこそ、ユーザーがそこにゲームを「見立てる」ことができるのであれば、全てがゲーム足りうる

2010-06-17 03:54:06
totobook @totobook2

だからこそ、ゲーム製作は少しでもその「見立て」に合うようなデザインとろうとしてジャンルなどの型を生み出した、とか。うーむ、自分でも言っててものすごい説得力の無さだ……

2010-06-17 03:55:07
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

なるほど「見立てる」ことが「ゲーム」を産む。見立ては通常、既に在るものを、既に在るものに見立てる。ところがゲームの場合は、例えば先ほどの葉っぱの場合、何を何に見立てているのだろうか?RT @totobook2 歌舞伎などの「見立て」 人間は世界の全てに対して本能的に行っている

2010-06-17 03:57:28
唐沢衣織 @karasawaiori

子供が小枝を振って嬉々として遊ぶ。 それが「チャンバラ遊び」だと認識できれば、意味のある遊びとなる。けれども、小枝を振ることそのものに、喜びを見出してもいる。

2010-06-17 03:58:37
tricken(Tw以外の居場所は固定参照) @tricken

@miyayou ゲームの場合、意味システムと表象システム(パース記号論で言えば、indexの相互作用とsymbolの相互作用)とが二重に駆動しているので、必ずしも物語的意味に還元できないことが多いですね。テトリスが表象システムとして何を表しているかを問う人は居ない。

2010-06-17 04:00:00
唐沢衣織 @karasawaiori

意味なき行為にも快楽は宿っている。けれどもその小枝に「妖刀・村雨」と名づけ、相手を「宿命の相手」としたときに、がらりと世界は変わり、快楽も(誤解を恐れずに言えば)複雑になる。

2010-06-17 04:00:31
totobook @totobook2

@miyayou 成功した、失敗したということだけを見立てているような気がします。運動会で走って勝った・負けた。お遊戯でうまくできた・できなかった。成功と失敗の体験は、ある程度の年齢を超えれば必ず全員が共有しているものですので、だからこそその場にいる子供「達」が遊びにできる

2010-06-17 04:01:27
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

つまり、見立てる、という事によって、実世界の中にもう一つの閉じた世界を作っている。実はゲームというのは、世界内世界である時点で「ゲーム」として認識されるのか?そして、その世界内世界では実際に死ぬ事があってはならない。つまり、死のある世界で、死のない閉じた世界を築くことがデームか?

2010-06-17 04:01:35
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

なるほど。それは、さらに、「見立て」を深化させたということだ。RT @karasawaiori 意味なき行為にも快楽は宿っている。けれどもその小枝に「妖刀・村雨」と名づけ、相手を「宿命の相手」としたときに、がらりと世界は変わり、快楽も(誤解を恐れずに言えば)複雑になる。

2010-06-17 04:02:40
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

成功、失敗、と落ち葉の浮き沈み、なるほど、見えて来ました。RT @totobook2 @miyayou 成功した、失敗したということだけを見立てているような気がします。運動会で走って勝った・負けた。お遊戯でうまくできた・できなかった。

2010-06-17 04:03:22
唐沢衣織 @karasawaiori

葉っぱの話は、子供の話だけじゃないと思ったりもする。 競馬とか賭け事とか、一定の公平と思われるルールがあれば大人は熱狂してるし。 子供はその「見立て」が無くとも、楽しむことができるのかな、と郵便的につぶやく。

2010-06-17 04:06:29
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

その議論は昨日の「シナリオ」をどう捉えるかという議論 http://bit.ly/bXCQVb と被るところが多いですね。つまり、表象の次元の語りとしての物語なのか、それとも、もっとインタラクティブな、たとえテトリスであっても操作体系の中にさえドラマを見出し得る @tricken

2010-06-17 04:09:28
tricken(Tw以外の居場所は固定参照) @tricken

@miyayou 「見なし方」は排他的ではなく、常に「多重」なんですよね。たった一つの対象から、人によって異なる見方ができる。「物語」としても「ゲームメカニズム」としても、「なんらかの、ありのままの事実」としても見なせる。これが、相互排他的に語られることで潰れることが多いです。

2010-06-17 04:11:37
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

ゲームが先にあるわけじゃなくて、そもそも見立てるためにゲームがある、ということですね。それは面白い…RT @karasawaiori 葉っぱの話は子供の話だけじゃないと思ったりも。 競馬とか賭け事とか一定の公平と思われるルールがあれば大人は熱狂してるし。子供は「見立て」が無くとも

2010-06-17 04:12:55