ゲーム、認識、見立て ― ゲームはいかにして世界の中で見出されるか?―
確かに物語性とインタラクティブ性は直交した関係とした捉えられることが多いですね。前者は、人間が見立てる、という精神の働きによって現出され、後者は、実際のフィジカルな運動によって現出する。「ゲームメカニズム」は後者に属すると考えれば、両者は対立する。 @tricken
2010-06-17 04:16:43@miyayou でも全部、実は、観察可能な物理環境から構成される人間の見立て(signの受け取り)、なんですよね。見立てさせる水準が違うだけで。その多重性を多重性でなく、物理/意味の二元論で切ると、ゲームという表現は永遠に分析できなくなると僕は考えています。
2010-06-17 04:19:47その場合、例えば身体的感覚を通じて受け取るシグナル自体を見立てる、という事も、見立て、に入るという事なのだろう。つまり意味的なものがある程度、人間の恣意が介入できるのに対して、身体的な見立ては恣意が介入できない。ここに物理と意味を分かつ何かがあると考えられている @tricken
2010-06-17 04:24:09@miyayou ちなみにパース記号論では、独立した(他の何かを代理で表すわけでない)感覚の質そのものを「icon」と言いますね。これも見立てですが、そこに時間的契機が入ると、記号論だけでは説明つかない運動の快楽を分析することになりますね。
2010-06-17 04:26:19人間が日常的に見出している見立て(アフォーダンス)と、ゲームが見出す見立てには、明確な線引きが必要だろうか? つまり、それがゲームである、という何らかの指標が必要なのだろうか? 或いは、ゲームとは日常的な見立てを、一度外すことなのだろうか?
2010-06-17 04:27:41@miyayou つまり、浮葉運動をiconとして眺めれば「運動する快楽の受容」に。indexでなら「なんらかのルールを賦与し、ルールメカニズムの運動と戯れる」。最後に、symbolでの「いわゆる、物語的な解釈を与えた上での、その意味の鑑賞」が、それぞれ遊びとして成立します。
2010-06-17 04:29:25そういった記号論は、表象に現れる質感を記号として捉えてしまうがゆえに、動的なインタラクティブ性、即ち、最終的には表象的質感の記号として現れる記号を垂直に貫く構造、かつその動的な運動を捉えきれないのだと思う。記号論とインタラクティブゲームを考察した論考はあるのか? @tricken
2010-06-17 04:32:01@miyayou また、パース記号論は、この三分類が「順に影響を与える」として、icon,index,symbolを晩年にFirstness,Secondness,Thirdnessと言い直していますこの1,2,3は、実は前三つより上位の概念ですが……。(続きます)
2010-06-17 04:33:07@miyayou ゲームとは試合・競技であり、プレイヤーという入力をルールという関数に渡して勝敗が出力されるのであれば、やはりそれはゲームなのだと思います。
2010-06-17 04:33:17確かに、そういう立場に立てば、そう表現できるのかもしれない。ただ、それがそもそもゲームなのか、という議論には、立ち入れてないような気がする。 RT @tricken つまり、浮葉運動をiconとし…
2010-06-17 04:34:45@miyayou (承前)たとえば、アフォーダンスのような「確かに、ここに位置を占める何者かがある」という情報は、感覚の質そのものだったり、何かを一対一対応で関連付けるものです。でも、先ほどの1,2,3は、「数字の多い方は、必ず数字の少ない方から影響を受ける」とされます。
2010-06-17 04:36:00つまり、我々は、現実の事象に先立って、そういったゲームの本質(イデア)を既に知っている、ということですね。或いは、イデアなどではなく、もっと原初的な狩り(game)なのか…RT @codeanalyze ゲームとは競技でありプレイヤーという入力をルールという関数に渡して勝敗が出力
2010-06-17 04:37:17@miyayou 僕の場合、indexの部分(つまり意味システムの部分)だけを動的構造として確保すれば、あとはいかにそれ以外の、感覚の運動や物語的表象と“関連しているように思わせるか”という技巧の問題に成るかと思います。どうしてそう言い切れるのかは、説明が長くなりそうですが。
2010-06-17 04:38:33@miyayou 物理それ自体の質も、言語的な物語的表象も、ともに無視せずになおかつ最低限ゲームデザインという技芸を成立させているsignとは何かと言えば、それはSecondnessに留まる意味システムの運動、indexの操作や解釈についての技巧だと思います。
2010-06-17 04:40:49バースの理論はバースの理論なのだけれど、かなり射程の広い範囲を議論しているので、ゲームという概念まで狭めるには、幾つかの議論を超えないといけないと思う。その場合に、記号論にゲームの解析はできても、ゲームの生成を語ることが可能なのだろうか? @tricken
2010-06-17 04:42:51@miyayou 僕は、出来るという見込みを持っています。特にRPGというゲームは、物語作品等のsymbolからindexとして表せるかもしれないものを抽出してメカニズムをつくり、現場で走らせることで再度プレーヤにsymbolを見出してもらい、ソレを元にindex……という
2010-06-17 04:44:23@miyayou (承前)index-symbolサイクルとでもいうような認知の運動によって、実際のメカニズムの総合的な意味がダイナミックに変化していると仮説できると考えています。iconについては、ドイツボードゲームがコンポーネントに凝っていることを少し想起しています。
2010-06-17 04:46:30つまり、それはバースの言う3つの層を、「見立てる」という行為が貫く運動を見ているに過ぎないのではないのかな? つまり、何かをゲームとして見立て始める、という契機を、記号論で捉えることは可能だろうか? RT @tricken 僕は、出来るという見込みを持っています、
2010-06-17 04:47:40例えば、記号で覆い尽くされた世界の中で、ある種の裂け目や、記号のダイナミズムが、ゲームの成立を示唆する、ということがあるのだろうか? RT @tricken
2010-06-17 04:49:27@miyayou 記号論の代表的三区分のうち、まずどこの視座が、別の視座におけるゲーム的みなしを誘発しているのかを観て行く。icon,index,sxmbolの間での「認知のモード切替」「相互の関連付け」「体験の遡及的編集」が、ゲーム感覚の成立を論じる参照点になるかと考えてます。
2010-06-17 04:50:53@miyayou うーむ、すみません、もしかしたら三宅さんが、僕のいうsignを、ソシュール的=言語的=恣意的な、別の分野での記号論と誤解されているのではないかとおもわれますが、どうでしょう。ソシュールの言う記号は、むしろsignのうちsymbolに過ぎないです。
2010-06-17 04:53:51それには賛成だ。個人の中であるゲーム体験が成立していることを、3つの視座から語り得ることは出来るだろう。では、ゲームというのは、外界が個人の認識の階層の中に偶然成立させる何か、ということだろうか? RT @tricken 「認知のモード切替」「相互の関連付け」「体験の遡及的編集」
2010-06-17 04:55:44或いは、人は、そういったモードを切り替える遊戯を行うことで、ゲームを発見するチャンネルを見出す、ということだろうか? RT @tricken
2010-06-17 04:56:54@miyayou もちろん、そこから説き起こすには誤解の受けやすい領域なので、パース記号論自体の取り扱いの慎重さ含めてどこかで提示し直すべきでしょうが、少なくとも僕の見立てでは、パース記号論はほとんどカント哲学と変わらないほど科学的物理現象を内側に含めた論になってます。
2010-06-17 04:57:08