ゲーム、認識、見立て ― ゲームはいかにして世界の中で見出されるか?―
@miyayou 僕は、indexingを仮説した瞬間、ほかの表現形式とは異なる、抽象的な運動が、ほかの様々な思考のモードと並走し始めてしまう、その風景を「狙って与えようとすること」が、ゲームデザインかと思います。狙ってないものに就ては、桝田さんの買い物や回転寿しの例が秀逸です。
2010-06-17 05:01:02パースにせよソシュールにせよ、それぞれにゲームについて捉え方を展開するのはよいのですが、そもそも最初に世界の中にゲームを見出す、他の現象とゲームとを明確に区別するゲームを見出すという点について何かを語り得るのか、語り得るとすれば何かが知りたいだけです^^ RT @tricken
2010-06-17 05:04:12@miyayou ウォーゲームのコンポーネントに、人形としてのかわいさ(icon)、戦争物語への思いを馳せること(symbol)では、ゲームは立ち上がらないとおもいます。その間に「兵隊は三歩まで進める」という独特の定義やみなし(index)が発見されて初めてゲームが動き始める。
2010-06-17 05:04:16@miyayou あ、とりあえず今ポストしたのが、具体的な対応例です。これで「違うんじゃね?」とおもわれた場合は、いずれ別の機会に書き直したいとおもいます。
2010-06-17 05:05:32@miyayou 僕はやっぱり、ゲームの成立には、indexにかかわる認知が目の前の対象に賦与された瞬間が強く関わっている、と思ってます。ほかではアートにはなっても、ゲームでもある、ということにはならないようにおもわれます。
2010-06-17 05:07:36つまり、それはパースの記号論から見たゲーム、ということなのだろうね。でも、これはバースの一般論をゲームに割り振った、ということなのだろう。パースは、index の起源について何か語っていただろうか? RT @tricken ウォーゲームのコンポーネントに、人形として
2010-06-17 05:09:58@miyayou 学術論文としては、まだ誰も厳密には主張してない所だと思います。ただ「表現としての数値」については、08年後半にhiyokoyaさんが論じています。数値に限らず、なんらかの制限や管理資源として、ある対象が(一対一対応で)定義されるのが、ゲーム的表現形式である、と。
2010-06-17 05:12:26@miyayou indexの起源となると、そうした思索ノートにあたるテキストにはまだ当たってません。すみません。
2010-06-17 05:13:46なるほど。つまり、その index に関わる認知が賦与される、という瞬間が、ゲームが成立する、ということか…ということは、バース哲学では、その index はかなり流動的に個人の中で変化する、と捉えていいのだろうか? RT @tricken 僕はやっぱり、ゲームの成立には
2010-06-17 05:14:53@miyayou ただ、パース記号論のゲームデザイン論への親和性は、少なくとも、物語とゲームをいたずらに対立させるような素朴な視座を回避する程度には有用かと、この頃思うようになりました。
2010-06-17 05:15:32いや、とても勉強になりました。バース記号学が準備したフレームの起源を問うことは、哲学ではあまり関心されないことでしょう。ありがとうございます。 RT @tricken indexの起源となると、そうした思索ノートにあたるテキストにはまだ当たってません。すみません。
2010-06-17 05:17:05@miyayou みなし自体は、三つのモードはどれも激しく変わります。ただしパースに限らず、初期プラグマティズムはどれも概ね、「唯一の客観的・物理的な実在の運動があること」は疑わず、「しかし、我々の心身は、その対象を目の前にしつつ、勝手に誤解する」が基本的世界観です。
2010-06-17 05:20:20indexという次元まで降りて行けば確かに両者の対立は止揚されるかもしれない。開発者が対立すると言っているのは、ゲーム全体を推し進める物語ベクトルと一つの時点でユーザーの前に展開するゲームメカニズムをどう融合させるか、ということかと思いますRT @tricken 素朴な視座を回避
2010-06-17 05:21:21@miyayou そうしたみなしは、誤謬を修正して真実に近づこうと言いたい自然科学的営みとは相性が良いのです。自然科学もまた、激しく厳しく、物理環境をindexingしながらその対応を検証で覆してゆきます。しかし、モノそのものには至れない。
2010-06-17 05:22:23なるほど。では最後の質問です。その変動の契機となっているものはなんですか?人間は、結局、新しい事象が来るたびに、新しい認識を構成しようとして、パニックになりながら3つの層で試行錯誤している、ということでしょうか?RT @tricken みなし自体は三つのモードはどれも激しく変わり
2010-06-17 05:23:24@miyayou 多摩豊さんが「数値定義や操作感の置き方に失敗すると、再現を目指された状況がいくら厳密であっても、プレーヤは想定していたほどうまく受け取ってくれないよ」というようなことを言ってました。特異点問題と言います。ゲームの方向性をどこに持って行くかは、常にジレンマですね。
2010-06-17 05:25:25@miyayou パース自身で完結するのは厳しいだすが、僕は社会学の相互行為論の知識が役に立つと思います。たとえば先日のはやぶさ帰還には、色んなはやぶさのみなしが、三モード咲き乱れました。でも誰も混乱して居ない。それは、「ありうる認知」の全体を知ってる人が少ないからです。
2010-06-17 05:28:21@miyayou 色んな「ありうる視座」の置き方があるとして、視座を置くと、その視座をチョイスしている限りはほかは必ず「不問に付される」ことになります。霊能者が幽霊をみようとして、人間が見えなくなるみたいな感じです。こうしたモード切り替えは、実は自発的にはそんな起きない。
2010-06-17 05:30:24@miyayou でも、ゲームというアーキテクチャ、あるいはよく整備されたボードゲーム等は、そうした環境を状況として与えてしまうがゆえに、半ば狙って人にめまぐるしい認知の視座の切り替えを要求します。僕は、ゲームの表現力は、そうした適応の強制による認知の切替誘導にあると思います。
2010-06-17 05:33:14夜遅くまでありがとうございました!^^/ たいへん勉強になりました。感謝します。 RT @tricken
2010-06-17 05:33:15@miyayou いえいえ、とても激しい質疑にたじたじでしたが、うまく最低限、一貫性を保ってお答えできたかなと思います。こちらこそ辛抱強く聞いてくださりありがとうございます。
2010-06-17 05:34:30いい視点ですね。視点の切り替えはゲームを不安定化させる諸刃の剣ですが、同時にゲームの魅力でもありますね。 RT @tricken 僕は、ゲームの表現力は、そうした適応の強制による認知の切替誘導にあると思います。
2010-06-17 05:35:07こちらこそ、ありがとうございます。 @tricken さんが入る前の議論と共に、togetter にまとめますので、不都合があれば明日にでも編集してください。ではー^^
2010-06-17 05:36:32@miyayou おそらくhiyokoyaさんが普段からおっしゃってるゲーム表現のヤバさというのは、そうした視座誘導が思想的な要素をしばしば含むということを考えられているからだと思います。ただ最近は僕しかパースで説明してないので、僕の思い込みということにしておきます(笑)。
2010-06-17 05:39:10