dodecaphonica第ゼロ号、プリキュア・クリティカ、筑波批評2011秋について
- yaoki_dokidoki
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ドデカフォニカ0号の「情報悲劇について」は、まったくそうは読めないかもしれませんが、僕が前々から考えている、「付随音楽(非=純音楽)の純音楽的な重要性」というパラドクシカルなテーマに並行する問題を扱っていくつもりで書いています。最後の方のニーチェの部分がその伏線です。
2012-05-07 21:55:55本は、罫線入りのコクヨのルーズリーフに印刷されていて、いちおう、この罫線に沿って印刷されている。微妙にずれてるものもある。 http://t.co/YkLyld9p
2012-05-07 22:10:45ぼくは、12音階についての文章かと思っていたが、すくなくとも表面上、それは批評についての定義?からはじまっている。面食らったが、、おもしろい。
2012-05-07 22:12:32ところで現在、文フリでの収穫物を鋭意解読しています。特に筑波批評・ボカロクリティークの八起さんの「もってけ」と「プリキュア」の歌詞分析、セイジョーさんの「恋愛サーキュレーション」レビュー、それにシノハラさんの「Go-qualia」論を。これらについてはレビュー書くつもり。
2012-05-07 22:14:01「一般に批評は対象や方法の違いからいくつかのジャンルに分けられる。これら諸ジャンルのどれにおいても、批評は常に決定と判断に満たされたものとして存在している」(dodecaphonica、p.2)という断定から始まる。まずこれにびっくりした。
2012-05-07 22:15:08びっくりというのは、批評のかっこうの付け方として、「決断と決定とをたえず先送りにする。遅延させる」というような価値観があるのだろうとぼくは思っていたからだ。そういう思い込みが自分の中にあると思うからこそ、ぼくはできるだけ自分の文では肯定と否定を明白にかきわけたいと思っていた。
2012-05-07 22:19:14つまりぼくの価値観では、「決定と決断」、これをもつ批評こそ、「かっこうの悪い」ものではなかったのか、と思ってひふみさんの本文を読み進めた。
2012-05-07 22:20:27ここから、ひふみさんは、批評を抽象化して考えようとする。つまり、対象はなんでもいい。とにかく批評について考えたいと書いている。
2012-05-07 22:24:03「まとめると、批評における決定と判断は作品という主題をめぐってなされるある種の分裂した演劇的な関係なのだ。またそこから、それが『主題』としての条件を満たすならば批評の対象は『作品』である必要すらないということが理解されるだろう」(dodecaphonica、p.4)
2012-05-07 22:27:44批評の対象はなんでもいい。ここにはすぐに賛同できる。むしろ批評は、対象について語ること全般をさすというのが、ぼくの考えだからだ。
2012-05-07 22:29:01しかしまず面白いと思ったのは、ここ。「対象は何でもいい、決定という身振りをとることが可能であるかが重要なのだという逆転。(これは批評家は書き出しにおいて、つまり題材の選択においては、詩人でなければならないということを意味するだろう。)」(dodecaphonica、p.4)
2012-05-07 22:30:52たしかに、ぼくがいった論理を裏返せば、「何かについて書かれていさえすれば、それは批評だ」となるが、ひふみさんはさらにそれをおしすすめ、「何かについて書かれている、そのような身振りさえとれるならば、批評となる」といっているのだろう。
2012-05-07 22:34:01だけど、「何かについて書いている、話している」ということと、それが「決定している、判断している」ということには、明らかな差がある。つまり、ぼくがはじめに抱いた違和感はそれだ。
2012-05-07 22:35:41ところが、ひふみさんはこう主張する。「批評は批評である限り一つの文に置き換えられる」(dodecaphonica、p.4)その根拠は、書き手と読者との距離にもとめられるようだ。
2012-05-07 22:37:47ふだんこういうことはぼくは考えてないので、ひふみさんの文はとくに批判的にではなく、そうなのかー、と思いながら読んでいた。
2012-05-07 22:38:45ひふみさんの「批評は批評である限り一つの文に置き換えられる」という主張は、行為遂行的なレベルの読解と事実述定的なレベルの読解との、読者による一致に求められるようだ。これは面白いと思った。
2012-05-07 22:41:41「(「豊穣なテクスト」がもつ)偶然性が必然性へと変換される過程は、作者である批評家自身から見れば単なる誤解のプロセスでしかないが、『よき読者』から見れば、そのような変換プロセス自体が、作者の主観を超えた読者共同体の間主観的な布置の中での必然的なプロセスとして捉えられており、」
2012-05-07 22:45:39つづき。「純粋に作者のものであったはずの批評を部分的に乗っ取るものですらあるのだ。これこそが『よき読者』と一般に呼ばれているものの効果であり、既に述べた批評をめぐる言語環境の問題のもうひとつの側面でもある」(dodecaphonica、p.4)
2012-05-07 22:48:07「つまり、『よき読者』の間主観的な共同性は、本来行為遂行的に書かれたテクストをすら事実述定的なレベルに還元してしまう。」(dodecaphonica、p.4)
2012-05-07 22:50:57そういう論理から、ひふみさんは「批評は批評である限り一つの文に置き換えられる」といっている。ぼくは、「何かについて作者が語っているのが批評」といったが、ひふみさんは、それを読む読者は、作者のその語る身振りから「想像上での必然性の積み重なり」へと変換するため、
2012-05-07 22:54:57「批評は批評である限り一つの文に置き換えられる」と述べている。これが、文章の冒頭で断言されている「批評は常に決定と判断に満たされたものとして存在している」(dodecaphonica、p.2)ということの根拠だ。
2012-05-07 22:57:30なぜひふみさんがこんな文章を書いてるのかはわからなかったが、なにを書いているのかは、このように5ページまで読むうちにわかってきた。
2012-05-07 22:58:29つまり、僕が期待していたのは、「ところで、12音技法の与える恩恵は、云々」というような話であったが、ひふみさんは、もう少し抽象的なことについて思索している。
2012-05-07 23:00:25アニメルカvol.5のセイジョーさんの恋愛サーキュレーション論と、プリキュア・クリティカの八起さんのスイプリOP分析を読んだ。なるほど。八起さんが歌詞分析に用いる韻律論的形式化は面白い。アニソンコード進行ブログは僕もチェックしてる。#bunfree
2012-05-07 23:01:18