軍隊とそれに付き従う女性達

タイトル通りです。
53
@bukrd405

兵士の妻の労働を、軍隊に不可欠なサポート・サーヴィスとみなす方針は、16-18世紀のヨーロッパ各国の軍隊の基本政策であり続けた。軍隊は次第に国家の組織としての色彩を強めていったが、サトラーのような現場での補給業務は依然として軍隊内の女性に担われていたからである。

2012-05-09 09:02:46
@bukrd405

18世紀のプロイセンやフランスでは、女性サトラーが半公的なステイタスを与えられるようになった。これはアンシャン・レジーム期のヨーロッパの軍隊が、兵站業務を依然として整備できずにいたことを物語っている。

2012-05-09 09:03:57
@bukrd405

サトラーの数は想像以上に多い。1757年のあるフランス軍では、兵士3万200に対して1万2000の女性が「しっぽ」を形成していたし、1777年にニューヨークに上陸したフランス軍に至っては、7200の兵士に2000のサトラーがいたという。

2012-05-09 09:08:20
@bukrd405

1813年にイベリア半島に展開したウェリントン指揮下のイギリス軍は、総勢6万のうち、「ポルトガル人女性700人、スペイン人女性400人が、サトラーや〔スペイン語の〕ビバンデラス、または洗濯女などとして、さらに4500人のイギリス人女性が、「従軍妻」として」含まれていたと記録される

2012-05-09 09:11:55
@bukrd405

ここで、「従軍妻 wife on the strength」という表現に注意しよう。従軍妻とは、軍が正式に要員として認め、その扶養の責任も軍が負う、兵士の妻をさす。この言葉が軍の記録に登場しはじめたということは、兵士の妻を軍が制度として定着させようとする方針が、

2012-05-09 09:14:29
@bukrd405

(承前)兵士の結婚は所属する連隊長の許可を必要とする、という原則が成立するようになった。『岩波講座 世界歴史25 戦争と平和ー未来へのメッセージ』(岩波書店)

2012-05-09 09:18:05
@bukrd405

1801年にイギリスの第95ライフル兵団が定めた次の規定は、軍による結婚規制策の代表的なものである。「兵士の結婚は、連隊の福利に属する事柄である。〔したがって〕連隊本部が従軍を許可する女性の数は、下士官NCOs・兵士あわせて100人につき6人までとする」

2012-05-09 11:08:14
@bukrd405

(承前)「連隊は、しばしばそうであるように、窮乏をきわめる売春婦の供給源にはならない。そうではなく、軍の福利を享受する者にとって憩いの家となるべきものである」から、許可された「従軍妻」には、隊内の将兵が積極的に洗濯物や繕い仕事を回してやり、生活基盤を保障する。

2012-05-09 11:10:50
@bukrd405

しかし「不道徳な女、酒浸りの女、兵士たちのために働こうとしない女」はこのかぎりではない。女・子供は戦いの足手まといになる、という発想は、なるほど古くて新しい。ここにある100人につき6人という認可枠は、その後19世紀後半まで、イギリス陸軍の法定の従軍妻枠として定着する。

2012-05-09 11:13:02
@bukrd405

むろん現実には、従軍妻枠は連隊長の裁量いかんでフレクシブルに運用されていたらしい。しかし繰り返しになるが、生活集団としての軍隊に女性は不可欠の要素であって、少なくとも17世紀までの軍隊が、兵士の結婚を制限しようとした例はなく、18世紀後半のフランスやプロイセンのように、

2012-05-09 11:31:50
@bukrd405

(承前)結婚奨励策を採用した国もある。足手まといを整理しようという意図が、このイギリスの例のように、現実の政策レヴェルで実行に移されるのは、ようやく19世紀になってからのことにすぎない。重要なのは、その整理のしかたが女性を全面的に排除するのではなく、女性を選別し、

2012-05-09 11:33:39
@bukrd405

(承前)少数の女性労働者=従軍妻だけを、軍隊の管理・扶養のもとで活用しようとする政策としてあらわれたことである。これは軍隊の伝統を一部継承した政策であるともいえる。すなわち、勤勉な「亭主のラバ」は従軍妻として正式に受け入れるいっぽうで、

2012-05-09 11:36:54
@bukrd405

(承前)それ以外の女性を「不道徳で酒浸りの」売春婦として一括し、軍隊からいわば「銃後」へと放逐する政策にほかならなかった。

2012-05-09 11:37:37
@bukrd405

クリミア戦争の戦場に伝説のヒロイン、フロレンス・ナイティンゲールが登場するまでに、イギリス軍はすでに女性の「選別」作業をほぼ完了しつつあった。(ちなみにナイティンゲールは「最初の従軍看護婦」ではない。せんじょうでの介護の仕事は兵士の寡婦の就職先であり、

2012-05-09 11:40:19
@bukrd405

(承前)イギリスでは18世紀までにその慣例が定着していた)。このころになると、連隊長が兵士の結婚を認めるか否かは、本国勤務の場合、駐屯地の収容能力が決定要因になった。ということは、結婚を許可され、連隊内で夫とともに暮らし、労働に従事できる従軍妻と、

2012-05-09 11:42:22
@bukrd405

(承前)許可されずに(軍当局から見て)非合法の「銃後」を強いられた妻(正式には「兵籍外の妻 wife off the strength」とは、法的には何ら違いはなく、これを選別する根拠もじつは存在しなかったことになる。幸運にも従軍妻枠に入ることができるか、

2012-05-09 11:44:51
@bukrd405

(承前)それとも「銃後の妻」として連隊の外に追いやられるか。兵士の妻たちの運命は、この境界線を境に、生と死ほどの違いがあった。海外植民地に出征する連隊の指揮官は、公平を期すために、兵士100人につき6人の従軍妻をくじ引きで決めさせたこともある。

2012-05-09 11:48:48
@bukrd405

もとより、兵士の賃金水準は最低レヴェルにとどまっていたうえ、軍隊は家族扶養手当を支給しなかったから、たとえ従軍妻であっても、不衛生な連隊の宿舎でほかの兵士たちに交じって、生活のために「亭主のラバ」として働かねばならないことに違いはなかった。

2012-05-09 11:52:18
@bukrd405

しかし居住場所と食糧の供給、そしてパート・タイムであれ就労先を国家から保障された「従軍妻」は、国家による福祉サーヴィスの受益者ともいうべき特権的な存在であった。これに対して、軍から排除され「銃後」を強いられた兵籍外の妻は、軍によるサポートをまったく受けることができず、

2012-05-09 11:55:20
@bukrd405

(承前)そのうえ夫が海外に出征すれば軍からも夫からも見放され、文字どおり路頭に迷うことになる。生活集団を失い、路頭に迷う「銃後の妻」がその生活圏で選んだ季節労働のひとつが、売春であったに違いない。イギリスは大陸諸国とは異なり、軍の公娼を制度化したことはなかったが、

2012-05-09 11:58:04
@bukrd405

(承前)軍の駐屯地や軍港の周辺で売春婦が商売することを当然視し、黙認する政策をとりつづけた。よく知られているように、ヴィクトリア時代の売春婦の大部分は、失業によってやむをえずこの職業に一時的に従事した季節労働者である。軍の駐屯地や軍港では、部隊が出征し、移動し、

2012-05-09 12:01:33
@bukrd405

(承前)また帰還するたびに、この季節労働者の需給も変動した。イギリス史上初の本格的な売春婦取り締まり政策が、ナイティンゲールの軍健康調査結果を受けた1860年代以降、兵士の性病予防対策として採用され、社会的な議論に発展したことは、今日では詳しく分析されている。

2012-05-09 12:03:51
@bukrd405

しかしここで重要なのは、軍隊による女性の選別が、兵籍外の「銃後の妻」の困窮を必然化し、兵士を対象とする売春婦の恒常的な供給源となっていた事実であり、これに気づいた当時の救貧行政の担当者も、「銃後の妻」が売春婦に「転落」することを防ぐために、

2012-05-09 12:17:39
@bukrd405

(承前)軍隊に再三にわたって扶養を訴えたものである。ナイティンゲールの功績は、軍隊が生きた人間の集団であり、兵士たちにも最低限の生活環境と健康の保障が与えられるべきであるという、「兵士の福祉」思想を社会に開眼させたことにある。

2012-05-09 12:21:06
@bukrd405

しかしナイティンゲールの英雄的なキャンペーンが巷間を騒がせたこと自体、すでに軍隊が社会から切り離された「見えない」集団になっていたことを物語っている。世界各地に展開するイギリス軍では、「従軍妻」も次第に勤務地への同行を許されなくなった。

2012-05-09 12:23:12