Blind Spot vol.1 -写真の現在- 写真が芸術作品であることの条件とは果たして何なのか?
【告知:明日です】Blind Spot vol.1 ー写真の現在ー 於:MEDIA SHOP(http://t.co/9A2UPOpd)日時:5月23日(水)19:00〜20:30 参加費500円 http://t.co/NR6B856h
2012-05-22 20:22:48明日開催です!MEDIA SHOP レクチャーシリーズBlind Spot(全3回)“Vol.1写真の現在”23日(水)19時、写真が芸術作品であることの条件とは果たして何なのか?作家・鈴木崇氏、写真史研究者・林田新氏による公開ミーティング。ゲストはキュレーター・中村史子氏。
2012-05-22 20:39:30明日のトークイベントでもお配りします@Tkohei: 展覧会チラシが、少しばかり大きくて(A3サイズ!)持ち帰りにくいと思うのですが、、そう言わずに持ち帰って下さると嬉しいです。(表裏にそれぞれ髙橋、鈴木の作品イメージが掲載されています) http://t.co/IqZgdlqx
2012-05-22 23:40:57Media Shopなう。このあと19:00から始まるトークショーを聴講します http://t.co/PSEgGUm3
2012-05-23 18:16:06始まりました!MEDIA SHOP レクチャーシリーズBlind Spot(全3回)“Vol.1写真の現在、作家・鈴木崇氏、写真史研究者・林田新氏による公開ミーティング。ゲストはキュレーター・中村史子氏。 http://t.co/6mRzXkLY
2012-05-23 19:27:47鈴木崇さんの日本の90年代以後の写真への「違和感」から話はスタートしました。アメリカで写真を学んだ鈴木さんにとって、スティーグリッツに始まり、ウォーカー・エヴァンス、ロバート・フランクという系譜、ロバート・アダムス、ルイス・ボルス、カラーのエグルストンという流れは自明だった。
2012-05-23 23:32:08エグルストン以後も、ジョエル・マイロウィッツ、ショア、ジョエル・スタンフェルドという流れの中で、「ドキュメント」がアメリカの写真の核だった。しかし95年ICAでアラーキーの展示があり、鈴木さんはその生々しさに衝撃を受ける。
2012-05-23 23:35:08その後トーマス・シュトルートのスタジオで働く機会などを通して、グルスキー、ルフといった2000年頃スターだった作家の作品も見るが、ここにもモホイ=ナギ、バウハウスという系譜をきちんと辿ることができた。その上で自分が何を撮るかを考えることができた。
2012-05-23 23:38:47ジョン・シャカフスキーの言説にも大きく影響されていることもあるだろうが、それでもなおアラーキーをはじめとする写真への違和感が残る。これはなんだ?と。
2012-05-23 23:40:50ここでそもそも、「ドキュメント=記録」だということが、写真がアートとして認められる言い訳として機能していることが話され、同時にシャカフスキー含めモダニズムのメディウム・スペシフィシティが「写真」自体の多様性、偏在性のために考えることが不可能だという話になる。
2012-05-23 23:43:08一方でポストモダンの文脈では、写真は「白人/男性/知識人」による「正統」アートへの攻撃手段としても用いられたという別の側面もある。シャーマン、ゴールディン、森村がそれだ。ただし鈴木さんはそれらも結局何らかの「ドキュメント=記録」であることには変わりがないのではと疑義を挟む。
2012-05-23 23:45:33日本で写真と言えば長く「報道写真」であった。東松照明、木村伊兵衛、土門拳のそれだ。しかしTV登場後、写真は報道としての役目を奪われ、模索が始まる。中平卓馬、森山大道、プロヴォーク。そこにシャカフスキーも含め、写真の逃げ場所として「アート」「美術館」が発見された。
2012-05-23 23:49:01しかしカテゴライズされることをすり抜けていくのが他ならぬ写真の性質ではないか、という話があり、また美術館に展示された写真(ex東松照明)を鑑賞者の多くは構図やフレームではなく「懐かしい風景」として読み取ることが多々という話もされる。東松はむしろ意図的にそれをしている節がある。
2012-05-23 23:51:02東松はある時期から写真集ではなく美術館に比重を置き出す。沖縄、長崎、東京、愛知と各地で作品を生み出し、それを現地の美術館に寄贈する。ここでは美術館は過去を想起させる資料を保存するアーカイブとして機能している。
2012-05-23 23:52:21と、ここまできて鈴木さんの「違和感」に話が戻る。アラーキー、ガーリーフォト、プリクラ、使い捨てカメラ、なんでも良いが全て写真である。鈴木さんが「写真とは何か」を問うた時点で既に鈴木さんの中に写真はこういうものだ、というものがあり、上記のものがその範疇を外れるから違和感を持つ。
2012-05-23 23:54:14先日の国立国際のシンポでも、参加者がみな「写真」と言いながら、それぞれ定義がズレているから奇妙な混乱が生じている。そもそも鈴木さんが「写真家」ではなく「作家」と名乗るのは、そうすることで自分が対象とする写真の分野を「アートとしての写真」に限定して逃げているのではという指摘も。
2012-05-23 23:55:48同様の問題は、飯沢/金子による「日本写真史概説」(岩波書店)において、文頭で「アートとしての写真」史を掲げ、報道写真としての時代性や政治性を捨象し、ムリをきたしていることにも繋がる。それ以前には土門拳のリアリズム論争、中平卓馬ら編集の「写真100年」など評論も写真家がしていた。
2012-05-23 23:57:55アートやアメリカ流のドキュメンタリーフォトの系譜だけで写真を見ることは実は貧しいことではないか、かといって「純粋に心の目で観ましょう」というのもおかしい。そのせめぎ合いを追求する必要がある。
2012-05-23 23:59:56ここで質問者から、アートフェアホンコンでのポール・チャン、コスースらのディスカッションを受けて、「見る」実践はひとつのフォームたりえるかという問いが立てられ、暫定的に「ひとつのメディウムたりえるのではないか」という返答が寄せられる。(ここ拾えればよかったと後悔している。)
2012-05-24 00:01:24欧米式がうまくインストールできずにネガティブに悩むのはもうやめないかという話と、そもそも日本は写真を権威化するよりもむしろ、権威に対する抵抗手段としてみていたところがあるという指摘。
2012-05-24 00:02:54こっから私感ですが、欧米式のフォーマットをインストールしようとしてノイズが生じているというのは雨後の筍状態の地域アートイベント、ビエンナーレの乱立でも見ることができて、興味深い。このノイズの波に乗ることがひとつ面白い展開への糸口かもしれない。
2012-05-24 00:04:55